ミスiDとルッキズム
ミスiDは見事に1次で落ちました。今年は色々努力していたのでなぜ落ちたのか未だに納得がいっていません。
嘘です。わたしが落ちた理由は大方予想がつきます。今日はそのことについてちゃんと書きます。心して読め。そしてわたしは心して書け。
ミスiDのグランプリはその年のミスiDの顔になる存在です。なので毎年とっても可愛い子がグランプリになります。
それは分かるのですが、ざっと見た感じこれまでのミスiDのファイナリストに見苦しいブスはいませんでした。ただの可愛さコンテストではないと謳っていながら、ミスiDとルッキズムは深く複雑に絡みあっているのです。
ミスiDに限らずこの社会の中で、わたしたちとルッキズムは切っても切れない関係です。初めて会った人の印象はその人の見た目に左右されるでしょう。顔が良ければいいという訳ではなく、その人の表情、服装、髪型、それらから感じられる清潔感。それらがその人の第一印象に大きく関わります。我々人間は何を感じるにしても視覚情報に頼りがちです。ミスiDの選考委員も人間です。エントリーした1400人ちょっとの中から好みの人間を選べと言われて、視覚情報以外の何に頼るべきなのでしょうか。めでたく1次選考を通過した方々のうち、ほとんどの方が印象的な画像をトップにしていました。そして被写体、アイドルの方が圧倒的に多かった。なぜならミスiDの主な戦場はTwitterだから。Twitterには画像が多いです。動画には画像と違って時間というものがあり、その分見られる確率が下がります。文章は言葉を認識して言わんとしてることを理解する必要がある。これも時間がかかりますし端的に言ってめんどくさい。画像という媒体は短時間で消費できる。『パッと見る』ことができる。百歩譲ってTwitterで流せるくらいの動画の短さなら再生してもらえるかもしれませんが、文章なんかは読まれることの方が少ない。小林さんはミスiDにエントリーしている人のツイートをRTしますが、恐らく9割以上は顔の写った画像のRTです。それは小林さんも「今年はどんな人たちがエントリーしているのか」わかりやすいからそうしていると言っていました。
わたしの武器は文章と絵、思想でした。容姿ではなかった。その中で見られる確率の高い絵だって大した実力はない。2年前なら容姿を主な武器にして堂々と戦うことも出来たでしょうね。わたしはあの頃から15kg太りました。お気に入りだった服がほとんど着れなくなりました。お気に入りの服を失ったわたしにはボディポジティブにたどり着くことも出来ず、容姿に自信を持つことなど今は出来なくなっていたのでした。
容姿という武器は小さなナイフのように隠して時折自撮りを上げるくらいの頻度で使って、あとは文章をたくさん書いて絵も筆は遅いけどそれなりに描きました。でも1次選考の時点でそんな努力はきっと重要じゃなかった。
1次を通過した女の子には“エモい”女の子が多いです。見ての通りわたしは“エモい”女の子じゃない。流行りの素朴さが似合う、彩度の低い写真が似合う女の子じゃない。無加工の写真で耐えられる自信を持つ女の子じゃない。もしくはエモくなくてもただ可愛くて愛してあげたくなる女の子でもない。好奇心でつついてみたくなる危険物のような雰囲気も持っていない。魅力的じゃない。
文章だとか絵だとか思想だとか、全部全部見た目に興味を持ってないと気にならないものなのです。わたしだって興味ない人が何か言ってたって「何か言ってるな」くらいにしか感じない。ミスiDは見た目だけのコンテストじゃない。見た目も良くて更に魅力のある人が選ばれるコンテストなのでしょう。
小林さんは配信でこんな感じのことを言いました。
「ミスiDは女性が成功する方法、ルートを増やしたいという目的がある」
嘘じゃないですか。
社会の中で女性は可愛くて美しければより評価されます。そもそも可愛くて美しくないと相手にされません。成功する方法が広がるのは、可愛くて美しいことが前提なのです。そういう意味なんですかね。可愛くて美しいことは前提だって、そういうことを突きつけるためのオーディションだったのかもしれないです。
別にそれでもいいんです。当たり前だから。前述の通り人間は視覚情報に頼って生きているんです。ミスiDでブスが成功したって掲示板で「なんでブスなのに評価されてるの?」と言われるだけなのです。ミスiDは少し前から『卒業式』という言葉を使うようになりました。これはきっと「いつまでもミスiDという籠の中に留まっていないで、社会でその素晴らしさを見せていってほしい」そういう意味だと思っています。ミスiDでどれだけ受け入れられたってその先は社会です。ミスiDに評価されるだけでいいや!そう思える人は多くないと思います。ミスiDで認められることで社会に認めて欲しい。そう思う人は無自覚者も含めて多いと思います。
正直なことを言うと、わたしの本来の顔の可愛さは平均値より高いと思っています。パーツも悪くないし配置も悪くない。ただ、今は自信が無い。太ったし、ほとんど評価されないし。だから今年は顔を売りにするのはやめました。その代わり文章をたくさん書きました。これが文章を武器とせず多少自信がなくとも顔が写った写真を売りにしていれば変わったのでしょうか。
わたしは復活戦も参加しませんでした。「何故文章や絵を頑張っている自分が顔で復活しなきゃいけないんだ」そんなことも思ったしツイートもしました。でもそれに加えて疲れも強かった。疲れている状態で2日間も頑張って、上位2名にもなれるわけないし選考委員の目にとまっても興味を持たれるとは限らない。そのときわたしは立ち直れるかわからない。顔を出すことは疲れることです。メイクをしなきゃいけないし顔を上げて表情を意識して話さなきゃいけない。顔を出さない配信もできるけどそれは多分見られることが少ない。ただ可愛い女の子なら何も意識しなくていいのかもしれない。でもわたしは太っているし、気を抜いたらブスが画面に映る。ブスな姿を見られたくなかったのです。誤魔化さなきゃ見せられなかったのです。もちろん、復活戦は顔だけじゃなくてその人の喋る内容とかやってる事を見てくれる場なのだと思います。しかしこれも顔が見えた方が解像度が上がる。わたしにはもう顔を見せて戦う気力が残っていなかった。
白状しますと、わたしはとてもとても弱い惨めな人間です。ミスiDを3年受けて3年落ちて、それぞれひとつも立ち直っていない。強気な言葉を使っていても強気な心は持ち合わせていない。もうわたしはお呼びじゃないのかもしれない。勘違いをしていたのかもしれない。自分も評価してもらえるって、勘違いしていたのかもしれない。ミスiDのタチが悪いところは誰にでも評価される価値があると勘違いさせるところだと思います。そんなわけないのだから。神様は不平等なのだから。顔を含む遺伝子も、親も、保育園幼稚園、小学校中学校高校全部ガチャなんだから。自分がどんな人間に育つかなんてガチャなんだから。わたしはこんな簡単なことに気づくのがこんなにも遅かった。それは何かを察する能力のガチャで外れを引いたからでしょう。頭が良くても察することが出来ない人間は要領が悪い。わたしがそれです。
ミスiDの話をしているようで社会の話をしてしまいました。
選考委員の方とか、ミスiDの1次選考に落ちた人、通った人達はこれを読んでくれるのだろうか。憤るだろうか、共感してくれるだろうか。この記事が自分を慰めるための文章であることに気付く人は何人いるだろうか。自分のために生きたい。