かける言葉を探しています
自殺のことを書きます。嫌な人は読まないでください。
過去にわたしは「死にたいと思っている(正しくは死のうとすることで人に許されたいと思っている)」という旨の文章を書きました。
今読むと、こんなことも考えていたなぁ、とか今もその感情の名残があるなぁ、とか思います。
まあこの記事は今回の話と関係あるようなないような、くらいの立ち位置なので読んでも読まなくても大丈夫です。
死にたいという言葉はこの世に溢れかえっています。皆の心に溢れかえるこの死にたいという言葉が少しでも減ればいいのにという気持ちはありますが、今回はこれを減らしたいという話ではないのです。
死にたいと発言する人は身近に何人もいます。わたしはその都度心配な気持ちになりますが、別に目に触れたその言葉が迷惑だとは思いません。それは実際にわたしが死にたいと思っていた時に、「死にたい」と発言しそしてそれが誰かの目に触れることで死にたい気持ちが少しやわらぐ感覚があったことを覚えていたからです。死にたいとツイートすることで少しでも楽になるなら、少しくらいは外に出してもいいのではないかなと思っています(時と場合にもよりますし、あまりにもやりすぎるのは良くないと思いますが……)。
ただその時、わたしはいつもいつも声をかけるべきか悩んでやめるのです。
もちろん、知っている人に自殺なんてしてほしくない。でもこれはわたしの主観であってわたしのわがままです。言ってしまえばわたしの気持ちなんてその人には関係ない。
だからもしわたしが誰かの自殺を止めるならそれはわたしのわがままであることを自覚しなくてはいけないのです。
「止めているのはあなたのためなんだよ」
これは通用しないと思っているんです。
例えば、
「親が悲しむよ」
それは親の都合でありその人の都合ではありません。それに、悲しむ者がいなければ死んでもよいのですか。
「生きてたらいいことあるよ」
なかったら?それに今が辛くて耐えられないのになぜいつ来るかもわからないその時のことを考えなくてはならないの。
結局は、
「あなたが死んだらわたしは悲しいよ」
このわがままにたどり着くのだと思います。
もちろんこれらの言葉を言ってもらうことで考え直したり気持ちが楽になったりする場合もあると思います。「あなたを失いたくない」という気持ちは例えわがままでもその人を想う気持ちで、それが救いになることもあります。でもそれはいつもそうとは限らない。少なくとも過去にわたしに訪れた本気で死にたかった時期の中にはその言葉では救えない気持ちもありました。世の中の本気の死にたいの中には一定数、「死んじゃダメだよ」と言われたその言葉に「死にたいという気持ちを否定された」と感じる場合があるのです。
否定されてしまうとより悲しくなって、より自分を責めてしまう場合がある。わたしの場合それでも自分を想って言ってくれた言葉だからありがとうと返しました。もちろんありがとうという気持ちは嘘ではなかったし、今思えばそう言ってもらえる環境はとてもいいものだったのだと思えます。それでもその時悲しみが増していたのは事実です。
今更ですがあくまで言っておきたいのは、そういった言葉をかける人をダメだと言いたい訳ではなくて、わたしの場合そこまで想定してしまってなんと声をかけていいのか考え込んでしまうという話なのです。
「死なないで」
この言葉はわたしには責任が重すぎて言えません。自分のことで精一杯で、その人の死にたいの原因になった事象を解決してあげることはできませんし、余裕のある人間じゃないので毎度毎度死にたくなった時に話を聞いてあげることも出来ません。
かといって
「死にたいなら死のう」
「死にたいなら手伝うよ」
こんなこと当たり前ですが言えないし言いたくないです。自殺は基本的に良い事ではないし、自殺願望を助長するような発言は控えるべきです。
しかしその人が「死にたい」と思った、それほど悲しかった、自分が嫌になったその気持ちを否定したくはないのです。わたしが死にたいと思っていた時に本当はその気持ちをなかったことにしないでほしかったから。結局自分と重ねてしまっているだけなのです。
だからいつもかける言葉を探して、結局見つからなくて声をかけるのをやめてしまいます。人を想う気持ちって難しい。わたしは、人を想うことは個人の精神衛生上でも周りの社会にとっても良い事だと思っているし、人を想うことをやめないけれど、人を想って具体的に行動をすることってこんなに難しい。相手を尊重しながら自分が相手を想っている気持ちを伝えるのは難しい。
「想い」だって結局は主観ですもんね。