わたしの魔法は?
友人宅でした人生ゲームでボロ負けした時のわたしといったら、実に大人げなかった。
わたしは勝負事で負けると非常に機嫌が悪くなる。
機嫌が悪くなると言っても、暴言を吐き散らしたり、怖い顔をしてみんなを威嚇するようなものではなく、なんと声をかけてもしょんぼりするだけで悲しい以外の感情を見せなくなるのだ。
その時は部屋の端っこで無言で虫の動画を見ながらしょんぼりし続けていた。それはパフォーマンスでそうしていた訳ではなく、自分の中でも自分の機嫌をとるのに精一杯で、それで虫の動画をまじまじと眺めていたのだった。
(Tips:小瀧ひとりは虫の動画を見るのが好き)
他のゲームも同じようなもので、運に左右される所謂運ゲーならまだ「今日はついてないな……」としょんぼり38%くらいで済むが、単純に自分が未熟故に負けたときのしょんぼりパーセンテージは測り知れない。最近ではそんなに表に出さずに済むようになったがそれでも心中はどんよりしている。
逆に勝てば気分は爽快かというと、そうでもない。嬉しい感情がゼロという訳では無いが、どちらかと言うと「負けなくてよかった…」という安堵感が大半を占めている。あまりいい気分ではない。なので勝負事が基本的に苦手だ。
(ただ友達とゲームをしてる環境は嫌いではないので誘いを拒むことはしない)
問題はミスiD2022のキャッチコピーだ。
この記事は、此度のミスiDのキャッチコピー、「わたしの魔法は負けない」について書きたくて書き始めた。そして、書きながら考えを整理していくつもりである。
わたしは執念深いのでミスiDを受けるのは3年目である。非常に惨めである。
これまでのキャッチコピーを振り返る。
1年目のキャッチコピーは「人の人生を笑うな。」
このキャッチコピーに関してはそこまで共感が強いわけではなかった。わたしはわたしの人生をそれなりに誇っていたし、躁鬱になっても高校を中退してもそれを笑ってくるような人は周りにいなかったから。
2年目のキャッチコピーが1番自分に共鳴していた。「夢見る頃を過ぎても」、高校を卒業出来なかったわたしは、周りの友達が大学に進学してもいつまでも高校中退の地点で立ち止まっていた。何かを夢見て行動しても、躁鬱が足を引っ張って何も上手くいかなくて、そのうち夢を見なくなっていた。でも、もしもまた夢を見ていいなら、また夢を見たいと思った。このキャッチコピーは救いだった。
でもこの年は惰性で受けてしまっていたからなにも努力せず何にも触れられず、鬱と重なって普通に落ちた。そりゃそうじゃ。
3年目、今年のキャッチコピーは「わたしの魔法は負けない」
正直今年のエントリーは迷っていた。ミスiDって…人に評価を委ねるのって、すごく疲れることだ。落ちた後だって惨めな気持ちでいっぱいのまま、その年のミスiDの終わりを待つしかない。悔しくて2年目を受けたけどもっと悔しくなっただけだったから、もうミスiDに縋り付くのはやめて、真っ当に生きる道を探そうかななんて考えては虚無感に苛まれていた。
それが、なんと今年のキービジュアルは宮崎夏次系先生ではないか。
そう、わたしが宮崎夏次系作品に出会ったのは高校生の時。わたしには大好きな画家さんがいて、その人が「影響を受けたものはありますか?」というような質問に対して宮崎夏次系先生を挙げていたのだ。漫画は何の気なしに買ったのだがどうしようもなく好きになってしまったものだった。わたしの未熟な語彙力ではどうしてもどう良いのかを語れないので、どんな作家さんであるかなど気になった方は各々で調べてほしい。
それで即決した。今年も受ける。わたしは宮崎夏次系先生の描いたキービジュアルを背負いたい。あなたはブンちゃんの恋はわたしの話だ。あの人の描くものは全てわたしに重なるものなんだ。わたしはそうでありたいんだ。
ただそれに反してキャッチコピーはうまく自分にはまらないな、と思った(一部当てはまった点と言えば、わたしが小瀧ひとりになる時に決めた約束事のひとつ、「私」を「わたし」と表記すること。何故そうしたかは忘れたけど今でも守り続けている)。
前述の通りわたしは勝負事が苦手だ。勝負とは見た通り勝ち負けと書く。勝負の中で、負けがあれば勝ちがある。負けないがあれば勝てないがある。それが残酷だと感じてしまった。どうしてこんな残酷な言葉をキャッチコピーにしたんだろうと考えていた。
とりあえず自分の中だけでもこのキャッチコピーを柔らかいものにしたくてこんな絵を描いた
かわいい。
このキャッチコピーについて、別のnoteで書いたことがある。
わたしに今使える魔法はなんだろう?
部屋が直ぐに散らかるのはまるで魔法みたいで面白いです。
わたしは一応絵を描く人間なので、何も描かれてない紙から可愛い女の子を生み出せるのは魔法だと思います。
そもそも、生命活動自体が魔法みたいなものです。食べ物がエネルギーに変えられて、それが肉塊を動かすなんて、なんてグロテスクな魔法なのだろうか。
そういった魔法が少しずつ組み合わさって、唯一無二のわたしになったのかもしれないですね。
わたしは何に負けたくないかな。
「自分はダメなやつだ」とどうしても思ってしまう自分の心に負けないように毎日頑張ってます。たまに負けてるけど。
わたしにかけられたグロテスクで素敵な魔法たちが負けていないことは、わたしがまだ生きて活動を続けていることが証明しています。
何度も何度もしのうとおもった。
でもまだ生きてる。
わたしはまだ負けてない。
勝たなくていいけど、負けずに生きたいものですね。負けず嫌いだから
今年のキャッチコピーを受けて追記した部分からの引用だ。
そうか、『わたしの魔法は負けない』って、勝負の話じゃないんだ。自分の文章を読み返して気付くなんて間抜けだなぁ。
ここでは『生きて活動を続けていることが(負けていないことの)証明』と言っている。でもそれってこの先も絶対だろうか。わたしはこの先死ぬかもしれない。というか死ぬ、普通に考えて。
キャッチコピーは、“負けない”であって“負けていない”じゃない。わたしは、この先も絶対負けない、なんて言いきれない。やっぱり自分は今年のミスiD向いてないのかな……と思ったけど、
そういえば。
言葉や思想、考えてることって儚いなと思う。わたしはさっきまで考えていたこととかをすぐ忘れたりする。意見がころころ変わったりするし、だから自分の言葉になかなか責任が持てない。人間の思いって、本当に一過性で絶対なんて絶対ない。
わたしは死にたくない。その気持ちはいつか変わってしまうかもしれない。死なないつもりだけど明日も明後日も生きてる保証はない。何が起こるか分からないから。でも……
今だけ、今だけ自分の言葉の責任を全部放棄していいなら言いたいことがある。
わたしは死なない。大丈夫、死なない。
わたしは、負けない。
わたしの魔法は負けない
なんだ、やっぱり今年もミスiDはわたしのためにあるんじゃん。負けないぞ~