幸せについて
幸せについて考えたことはありますか。貴方は幸せを意識して感じたことはありますか。それは気持ちのよいことでしたか。定義すら曖昧なものを他人に聞いても意味が無いことは分かっているのでこの問いは虚空に留まり続けます。
相変わらずわたしは真人間らしい行動を起こすことなく好きなことばかりやっています。母は働いています。自分が死ぬまでわたしを養えるようにと働いています。わたしには無い素晴らしい才能、働き続けられる才能を持つ母を見ていて己を恥じることも多々ありますが母がその考えを捨てるまでは母に頼り続けることとしました。その後のことを考えると気が狂いそうになります。わたしには生活環境を維持する才能がおそらく無い。
才能がなくともわたしは幸せに過ごせています。これはもしかしますと幸せを感じることが出来る才能を持っていると言っても過言ではないかもしれないですね。わたしが何故幸せだか分かりますか。家計が傾いていないから?家族が病気に理解があるから、友達がいるから?どれもその通りですが、ただそれだけでは幸せを感じられるとは限りません。
まずわたしがどういった人間であるかということから語ります。わたしはどこまでも怖がりなのです。人に嫉妬されて嫌悪されるのが怖い。それでいて傲慢だ。故に……故に毎日後悔と懺悔と惨めさを繰り返している。そんな人間は本来幸せを感じることが難しい。ただわたしは想定しました。というより、思い返しました。わたしは幼少からある程度、おそらく背が伸びきるまでの間自分を“持たざる者”と思っていました。隣の芝生は何色ですか、そう青々と茂っているのです。“持たざる者”のわたしは“持つ者”を恨んでいました。羨んでいました。消えてしまえばいいのにと思っていました。それは大抵の場合その“持つ者”が“持っている”ことを知らなかったからです。“持っている”ことを知らずにのうのうとのさばるのが許せなかったのです。
そしてある時突然気が付きました。己も全く同じように生きていたことに。
明日の食事を心配する必要もなく、やりたいことをやることが出来る環境に身を置いて、運のいいことに良い人間関係を築いてなお、やれ死にたいだやれ不幸だ、やれ持たざる者だなどと言って勘違いをしながら誰かにとってきっとのさばっていたのはわたしなのです。わたしの癖にいいものを持っていてその事に気付かずのさばっていたのです。そう、わたしは誰かにとって消えてしまえばいい存在である可能性が高かったのです。
わたしは恐ろしくなりました。これ以上自分が誰かを嫌がってきたように自分の存在自体を嫌悪されるのは悲しいと思いました。全て仮定の話なのに。
わたしは自分が思っていたよりずっと幸せ者でした。気付くのが遅かったとさえ思います。
母は画材や気持ちを安定させるのに必要な分のお金を惜しみなくくれます。わたしは毎日美味しいものを食べています。素敵で可愛い部屋に住んでいるし自分の持つ精神疾患はだいぶ良くなって苦しむことが減りました。
誰もがこれを手にしているわけじゃない。なぜそんな大事なことに気付けなかったのか。
見ての通りわたしは幸せのことをいつも考えていますが、自分が幸せを自覚した経緯のことを思い出すとあまり心地のよい気持ちではなくなってしまう。これは優しさなどではない。不安、恐れです。
「あの子あんなに幸せなのに悲劇のヒロインぶって、嫌ね。わたしあの子嫌い」
辛さの度合いは人それぞれです。幸せも人それぞれです。言葉では分かっていても、自分があの人と同じ環境なら……と考えてしまう。とにかく隣の芝は青く見える。ただわたしには気がかりなことがあります。
「あの子ってずっと幸せで、何か大変なことを乗り越えてないんでしょうね。だからあんなに薄っぺらいんだわ」
わたしの薄っぺらさはこのせい、なのかも、しれない。なんてね……人格に薄いも厚いもないですよ。
わたしは言葉に呪われています。誰かの言葉に常に呪われています。自分の言葉、自分の頭の中にいる存在しない誰かの言葉に呪われています。幸せ者のはずが呪われているせいでなにかしら苦しい。わたしは自分を幸せと思っていないといけないと思っている節がある。それを思い出すとどうにも苦しくなるのです。
それでもわたしは幸せです。幸せを感じた時その都度そこには確かに良い気持ちがあります。美味しいものを食べた時、面白い漫画に出会えた時、友達と話していて楽しいなとふと思った時、全部わたしの大切な幸せです。誰にも奪えない、わたしがあげようと思ってもあげられない幸せたちもあって、それならわたしが謳歌しなければいけない。この幸せな事象を食べ残して捨てるなんてあまりに勿体ない。
だからわたしはいつもいつも“些細な幸せを大切にしたい”と言っているのです。