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幸せな芝居と、熱海の砂浜と体温

 初めての舞台は、大学生の頃。10秒程の出番だった。舞台上から見る客席は思っていたよりも近くて、照明のせいだろうか直視できなかった緊張のせいだろうか、誰の表情も読み取れなかった。暗転からの明転、眩しさを悟られまいと無表情を決め込んだ私は、舞台中央の椅子に座ったまま息を忘れた。優しく肩を触れられて、目を閉じて傾いた。それだけ。

 私は人形役だった。人形だった。

 芝居を始めてから今日まで、幸運なことに数度、舞台上から幸せな光景を見ている。
 その光景は、恐らく同時進行で誰かと共有できるものではないけれど、それでもこの気持ちは誰かと共有できるものだとも思う。

 表情。視線。呼吸。感情。角度。舞台上の私を穿つ熱は情熱という一言では足らない。
 真綿で首を絞められた挙げ句胴から離れて飛んでいくような、そんな開放感。
 ただただ、幸せだ。

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 ぐち座熱海のゲネにお邪魔させて頂いた。つまり、客席への物理的投げかけが全て集中するということなので、そんな考えに至っていなかった私はただただ震えが止まらなかった。
 しかしながらそれらがあったから、では無く観終わった後の消耗は激しかった。冒頭からフォルテッシシモの波、その波を作っては維持し続ける言葉と表情たち。肉も骨も過去も全て消費して繰り出されていく芝居に、憎さと愛おしさが浮かんでは消えていく。
 手をかけた彼の気持ちも、手をかけられた彼女の気持ちも、何となく共感が出来てしまった。
 縋る思い出の脆さ、膨らんでいく違和感と決定打のない断絶、二度と戻らない不可逆な繋がり。
 そこからの再構築がどれほど消耗するのかも。若い二人がそれらを選ぶはずもないことも。

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 幸せな芝居。
 きっとあの頃の私から貰える答えは今の私とは違っている。あの頃の私は既に存在していないのでその違いは永遠に分からない。
 幸せ。
 疲れた身体に煙草と珈琲。
 覚えていてももう手放してしまった。
 冷えた身体に熱い湯船。
 いつの間にか求めなくなってしまった。
 長い山道を登りきった先の薄暗い景色。
 立ち入れない恐怖が勝るようになってしまった。
 変わっていく。
 連続しているはずの私が何処かで断絶している。断面を見たとて決定打は思い浮かばない。緩やかに終わりへと向かっている毎日で、緩やかに絶えていく。選びたい手や香りが違う方向へと漂っている。手の届かない場所への嫉妬さえも煤にまみれて変色していく。

 激烈な幸せを身にまとった役者たちが、舞台の上で命を燃やしている。それらは熱海の砂浜から眺める太陽光よりもきっと眩しい。手や足や首にぶら下がった枷を振り解こうとすればするほどに、千切れるどころか重く太くなって巻き付いていく。その重量に息切れしても、感じれば感じるほどに幸せだ。
 芝居とは、なんと幸せなことであろうか。

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