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演劇を観て、思ったことを書きます。

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最近の記事

11月三連休のこと。

 雨の音が、大きい。  雨の粒が、大きい。  交通機関も止まり、高速道路も通行止めとなった大雨の土曜。稽古に向かうために北上し大回り。八木、高陽、白木を抜けて八本松から西条へ。  山から溢れる水、道路を満たす水、フロントガラスを叩く水、タイヤに轢かれて弾ける水、川の色を変色させる水。  日頃指先を濡らす水とは違う、力を持った水を意識する日だった。  そういえば、最近は泳ぎに行っていない。最後に何にも追われず泳ぎに行ったのは、いつだっただろう。    晴れすぎて肌寒い日曜。  

    • 散文

      釜割って米喰らえ。 数日、感情が目まぐるしく右往左往して忘れたくないと 思ってしまったので、散文。 私にとっての白米みたいなもの。 その程度のもの。 視界に広がる舞台は何処にでも在りそうなもので、 映し出された世界は此処にしか有り得なさそうなもので、 吐き出す言葉たちは誰かを刺すように投げられているかの速度で、 その実、 胸に刺さったはずが心地よい温かさとなって、背中を押して包む。 生きる最中に飛び交う単なる記号が、こんなにも、 ただただ胸を打つことがあるのだろうかと。

      • 幸せな芝居と、熱海の砂浜と体温

         初めての舞台は、大学生の頃。10秒程の出番だった。舞台上から見る客席は思っていたよりも近くて、照明のせいだろうか直視できなかった緊張のせいだろうか、誰の表情も読み取れなかった。暗転からの明転、眩しさを悟られまいと無表情を決め込んだ私は、舞台中央の椅子に座ったまま息を忘れた。優しく肩を触れられて、目を閉じて傾いた。それだけ。  私は人形役だった。人形だった。  芝居を始めてから今日まで、幸運なことに数度、舞台上から幸せな光景を見ている。  その光景は、恐らく同時進行で誰か

        • 神殺しの五穀姫 台本

           この記事は、「第五品目公演 神殺しの五穀姫」の公開用台本が画像として貼ってある記事です。  この記事がアップされて直ぐ読んで下さっている方へ。  過疎地ですのにありがとうございます。この時期に記事をアップしたのは、当日パンフレットにQRコードを載せたいからです。  ご購入可能です。読後観劇されたい方はどうぞ。  台本購入だけも大歓迎です。  当日上演後に受付にて、ほぼ同じ内容を紙媒体でお読み頂くこともできます。  特典らしい特典はありませんが、ちょっとだけ駄文がついていま

          ¥500

          劣等星でも、相対的に劣っているのであれば、それはそれで、

           何処まで歩いても街が続いてくし何処まで電車に乗っても街が増えていく、なんと都会かと、むやみやたら心躍らせながら歩いて乗り回ったのは2022年の終わり。晴天に恵まれた広い空は高い人工物に遮られても関係なくて、その先に広がる風景は終わりが無くて、あちらこちらに生活や人生、果ては大きな夢までぴりぴりと感じるような。知っていた子達が夢を抱えて飛び出した先の、大きな街。  東京。  私はいい歳で芝居に出会ったのでそんな彼彼女らを手を振って見送るしかなかったのだけど私個人は若い内に芝居

          劣等星でも、相対的に劣っているのであれば、それはそれで、

          あと一ヶ月

          「一年温めた台本が、あと一ヶ月で上演になりますよ」 稽古帰りに投げられた言葉。 その言葉は半分は間違いで、半分は正解だ。 二品目公演稽古の頃、頭の中に浮かんでいたのは兄弟の姿だった。戦場で敵として出会った兄弟。その表情を描きたい。 そうして三品目を書いたが、ボツにしたプロットが他にあった。ボツにした理由は、面白い面白くない以前に勉強不足。 そしてそのプロットを一から書き直して台本にしたものが今回の五品目。 だから、五品目の台本は約一年前に完成したものの、温めていた期間は長い

          あと一ヶ月

          カクウノ劇団 #0試験的公演の揚力を受けて

          7月31日の自ユニットの公演。今回の座組は広島・東広島・呉と相変わらず広範囲で稽古場を広島市の東の端か安芸郡か東広島で設けていたのは、前回の反省点から。 前回の座組は今回のそれに廿日市を加えた、更に広い範囲であったのにも関わらず割と広島市中心部での稽古を多く組んでしまい、広島組には好評であったが他市組にかなり甘えてしまったと終演後からずっと胸に引っかかっていた。 であるので今回の稽古場大作戦の結果、当然深夜ドライブが多くなったがいつの間にか東広島への道のりは当たり前の景色とな

          カクウノ劇団 #0試験的公演の揚力を受けて

          さめた茶に酔うたふり 台本

          広島市青少年センター令和4年度文化発表促進事業 演者unit炊込飯 第四品目作品上演会 さめた茶に酔うたふり 公開用台本です。

          ¥500

          さめた茶に酔うたふり 台本

          ¥500

          クラッシュ・ワルツでおどる

           自身が大学生だった頃東広島に来る機会は皆無で、唯一の記憶は一年生の頃にバスを乗り継ぎ乗り継ぎ広島大学構内へ一度だけ侵入したもの。サークルの行事だったと思う。高速バスに詳しい友人にひっついて、何処をどう歩いたのかさえすっかり霞んでいる。現在では週に一度は訪れている、車さえあれば一足で行ける隣の街。  沢山の交差点を越えて、行く。  ある交差点での信号待ち。私は先頭で停車した。対向車は居ない。後続車も居ない。私一人停車した静かな横断歩道を左から右へ、リュックを背負った少年が

          クラッシュ・ワルツでおどる

          東の風が吹き抜けた冬の頃

           その風は、冬のそれではなかった。  肌寒い春の日、窓際の暖かな光、その真ん中で微睡む。髪を撫でるそよ風。  いや、暴風。  2020年。12月。冬が加速していく頃。  中旬に向かって、広島市内、といっても私の知る限りというごく一部ではあるが、緊張と諦めが支配していたように思う。連日更新される感染者数は予想だにしない増え方で、市内施設は次々に閉鎖へと向かい、公演・イベントの中止が発表され、何処其処の学校での陽性者は公表されていないのに耳を塞いでも通知される。冬の曇り空の

          東の風が吹き抜けた冬の頃

          月を照らし照らされた人に出会った、という物語を観た、という散文

           何かを抱えて、という姿を想像したときに浮かぶのは、腹の辺りに何かを抱えてうずくまる姿ではなく、膝から下が、すねやふくらはぎが、もしくは肘から先が、手首より肘に近い辺りが、その辺りが傷だらけになっているような、そんな姿。  日常、運転をしながら朝、街を行き交う人を、歩く、走る、待つ、進んでいく見知らぬ人の、膝から下が、肘から先が、傷だらけのそこらから、赤い液体がひたひたと滴って地面に落ちていく様を、毎日眺めている。  あの時あの人は、あの日あの人は、交差したあの背中は横顔は

          月を照らし照らされた人に出会った、という物語を観た、という散文

          銀河鉄道の夜の通った後に

          命からがら、な場面は、人生で二度。 一度目。 小学生の頃。実家から近い、小さな川。高低差50センチほどの小さな滝がいくつか。勢いよく流れている水を触りたくて、川遊びの最中に一人岩場を渡った。流れが緩やかな浅い所で、幼馴染み達が泳いでいる。川岸から少し階段を上った駐車場に母がいた、気がする。母は小さな女の子の着替えを手伝っていた、と思う。川の中程まで続く岩場を歩きながら、まぁ滑らなければ大丈夫だし泳げるし、と高を括っていた、のは確かだと思う。 岩場に這いつくばり手を伸ばし

          銀河鉄道の夜の通った後に

          劇團ぬるま湯 銀雪の足蹟~渡り巫女祈祷伝~を観ている

          真っ白な雪原に足蹟が一人分。どちらかが手を伸ばせば触れ合える距離に人間の男と妖怪の女。彼の顔色は悪く。彼女の鼓動は速く。それでも二人は普段の笑顔を絶やさず歩く。 馬鹿な二人だ。二人はふたりぼっちを選んだ。理由なんて一つしかない。きっと進む先にはあの六魔将共が居る。二人はふたりぼっちでこの國を救おうとしている。 馬鹿な二人だ。行くしかない。逝ってしまった者たちは帰ってこないけど、彼らの想いも連れて馬鹿な二人の元へ行くしかない。 さあ、武器を持とう。銀雪の足蹟を追って行こう

          劇團ぬるま湯 銀雪の足蹟~渡り巫女祈祷伝~を観ている

          グンジョーブタイ ロクな死にかたを観た日

          雨が降っていた。憂鬱な気持ちで会場へと向かう。 バイクを走らせていると、視界に何かの亡骸が入ってきた。 猫だろうか。狸だろうか。アスファルトに散った薄茶色の毛の塊とやたら目立つ黄土色の細長い筒状の何かが見えた。身体からはみ出したであろうそれを横目に大きくハンドルを切って、避けた。 とても好きだった個人ブログがある。 淡々と綴られる文章と独特な風景画像に魅入られて、暇さえあれば覗いた。一つ目から最後まで、何度も読んだ。 そのブログの主A氏と面識はない。内容から、同じ広島市内に

          グンジョーブタイ ロクな死にかたを観た日