見出し画像

「多様性の空間」としての居場所。

■日常的に「居場所」なるものを運営していて、訪問者にとってそこが居心地のよい敷居の低い場所であるために、わたしたちが気をつけていることのひとつに「リベラルであること」というのがある。「リベラルである」とは、他者に危害を加えない限りにおいて、それぞれの嗜好/志向する価値の多様性を、最大限に尊重していこう、というもの。とりわけ重要なのは、マイノリティ(少数派)であるような価値や趣味を、マジョリティ(多数派)のそれと同様に尊重しようということだ。

■これは単なるタテマエとしてそう言っているのではない。多様な背景、多様な価値観をもつ人びとが集う場所――それが、わたしたちの定義する「居場所」である。当然ながらそこでは、マイナーな価値や趣味、話題などが、メジャーなそれらと同じように存在し、流通するようでなければならない。言い換えるなら、多様な価値や趣味や話題を受け容れられるだけの「懐の広さ」や「余裕」がそこになければ、その「居場所」は十分に機能を果たしているとはいえないのである。

■では、そうした「多様さ」を実現するためには何が必要なのか。山形という「出る杭が打たれる社会」に生きるわたしたちは、何かについて意見を求められたり、何かを決断しなければならなくなったりしたとき、ついつい多数派(マジョリティ)の声や意見、前例やら慣習やらに、無条件に、思考停止のまま乗ってしまいがちになる。皆がそうやって思考停止するようになれば、当然ながら、きわめて画一的な世の中が訪れることになろう。そんな息苦しい社会はまっぴらごめんだ。

■みんなが「イエス!」と口をそろえている空間にあって、ひとりだけ「ノー!」を唱えることの困難さ。だがそこに、自分の他にも「ノー!」と口にする者が(たった一人でも)存在すれば、彼(女)の負担はだいぶ軽減されるはずだ。このあたりの事情は、居場所でも同じ。とすれば、居場所のわたしたちが「価値の多様さ」を実現するために行っていることは何か。そう、わたしたちは意識的に、この「ノー!」を実践している――対抗意見(カウンター)をあてている――のである。

■先日、ある利用メンバーが自作のマンガ作品を持参して見せてくれた。いろんな葛藤やら抵抗やらはあったものの、それでもみんなに見せようと決意した(らしい)彼女。聞けば、他の利用メンバーのふるまいに触発されて決断した、とのことである。動機の感染。そう、ここにあるのは「ノー!」の連鎖反応だ。「みんなと同じ」じゃなくていい。それぞれが、自分の望むこと、他人と違うことを思い切りやればよい。多様性の空間とは、そうした豊かさの宿る空間なのだから。

※『ぷらっとほーむ通信』033号(2006年01月号) 所収

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?