「価値中立」という名の思考停止。
■ぷらっとほーむの運営は、その価値に賛同し共鳴して下さった数多くの心ある人々による、財政的な支えを得て行われている。利用者がより利用しやすくなるよう、財政基盤を整えていくためには、そうした支援者の裾野を広げていく必要があるわけで、そのために私たちは、機会あるごとに、ぷらっとほーむの理念や目的について理解してもらうべく、意識的に特定の価値――社会的弱者としての若年のための分権的再分配のしくみを!――を打ち出す説明を行っている。
■当然それは、ある特定の価値への関与の「おすすめ」にすぎないわけで、そうした価値に賛同不可能であれば無視して下さって一向に構わない。私たちとしても特定の価値前提の押し売りをする気はなく、「自分には関係ないから興味はないし、協力する気もない」と言われれば、すぐに退く。だが、その拒絶の根拠には、ある一定の型(パターン)が見られるように思う。そこに含まれた価値前提が非常に興味深く感じられたので、今回はそこを記述してみたい。
■頻繁に見られる「断りの理由」とは何か。それは、「不偏不党」の立場にいる自分からはそうした「偏った価値」への関与は避けたい、というもの。具体的に言うなら、「学校システムによる一元的な社会化・選別」あるいは「いい学校、いい会社、いい人生」を「価値中立」であると捉え、それ以外のこと――例えば、「学校システムを経由しない多元的な社会化・選別」あるいは「学校や会社の良し悪しにかかわらず、いい人生」――には「偏り」があるという把握だ。
■だが待て。「学校システムによる一元的な社会化・選別」または「いい学校、いい会社、いい人生」のどこが「中立」か。「学校から会社へ」の一元的な社会化・選別システムは、高度経済成長という特定の歴史的・社会的文脈によって要請されたしくみであり、それ自体に「普遍性」が宿っているわけではない。当然、「価値中立」であろうはずがない。とすれば、「中立ですから」という身振りは、自らの前提への無知や思考停止のしるしでしかないということになる。
■言うまでもなく、「価値中立」とは、「どんな価値にもコミットしないこと」を意味しない。そもそも、あらゆる価値から中立的などという立場は、社会の中で生きる上で、絶対にありえない。それに目をつぶれば、「価値中立」のつもりが、いつの間にか「極度に偏った価値」へと関与させられている、なんてことにもなりかねない。大事なのは、自らの「偏り」を自覚し、ありそうもない「中立」へむけ絶えず自らの「偏り」の可能性を疑い続けることなのだ。
※『ぷらっとほーむ通信』017号(2004年09月号) 所収
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