サードプレイスとしての自主上映――「東北の春」に向けて(08)
筆者は現在、山形市内に拠点をおき、若い世代の居場所/学びの場づくりの活動をしている。活動を開始して15年ほどになり、現在では、常設しているフリースペース(居場所)とラーニングコモンズ(学びの場)が常に多くの若者たちでにぎわっているような、「第三の居場所(サードプレイス)」――第一が家族、第二が職場や学校――をやまがたの街なかに根づかせることができた。
よくあるような〈ひきこもり〉〈障がい者〉などと利用者をカテゴリー化して特別に対処するやりかたではなく、望む人であればどんな人でも基本的に受け入れ、雑多な人びとが同じ場をともにするというそのスタイルは、他にはあまり見られないユニークなもので、近年はあちこちから注目されるようにもなった。ではなぜ、そうしたスタイルが、やまがたという場所で可能となったのだろうか。
私たちのとりくみは、2000年に不登校の子どもをもつ親たちの運動体「不登校親の会山形県ネットワーク」によって開始されたフリースクール(不登校の子どもの居場所)設立運動に端を発する。運動により県内ではじめて設立されたフリースクールに関わった若者たち――筆者はその一人――が、「不登校」「子ども」に限定されない居場所づくりをコンセプトに、そこから独立するかたちで始まったものだ。
実は、これら一連の試行錯誤に、さまざまなかたちで、市民運動/活動上必要となる資源や知見、ノウハウを供給してくれていたのが、やまがたの映画まわりの人びとなのであった。フリースクールの活動を通じてまず私たちが出会ったのは、自主上映会という文化だった。映画というと映画館かDVDかというのが昨今のありかただが、観たい映画を映画館ですべて上映してくれるわけではないし、自室で一人観るだけならテレビとほとんど変わらない。そうではないものとして映画を享受しようとするなら、観たい作品、観てほしい作品を自分たちで上映するという自主上映の場をつくりだすことが必要となる。
自主上映会では、上映するその作品を普及するというミッションのもとに、所属や肩書、背景の異なるさまざまな人びとが集い、互いに対等な立場で意見を出しあい、共有し、一つひとつ合意をつくりながら、活動をくみたてていく。それに、たくさんの人びとに上映会に足を運んでもらうためには、作品の意義をきちんと言語化して人びとに伝え、その心を動かさなくてはならない。そこには、市民活動のイロハがつまっている。私たちは、上映会への参加や運営を介して、多様な人びとからなる場をマネジメントするという市民活動の基礎を修得したのである。
2000年当時、さまざまな市民グループが自主上映のとりくみを行っていたが、それらに活動の基盤や文脈、資源を提供していたのが、山形県映画センター(1979年設立)であり、山形国際ドキュメンタリー映画祭(1989年開始)であった。さらにいうと、両者に活動の基盤や文脈、資源を供給する文化的拠点として、山形市内にはフォーラム山形(1984年設立)という映画館が存在した。これらを中心とし県内のあちこちにひろがる文化系の人びとのゆるやかなネットワークが、私たちのようなゼロ年代やまがたの市民活動を育む沃土となったということだ。
では、いったいやまがたという場所のいかなる要因が、山形県映画センターと山形国際ドキュメンタリー映画祭、フォーラム山形という奇跡のようなトライアングルを可能にしたのだろうか。それらが産声をあげるにあたり助産の役割を担ったのは、1950~60年代にかけて東北各地で活発化していた生活記録・サークル運動と、そこで文化的・社会的覚醒を果たした当時の若者たちであった。彼(女)らを担い手として、文化の多様性を担保するためのさまざまな実践や活動が各地でにぎやかにとりくまれた。封建的で保守的なムラへのレジスタンス。
やがて高度経済成長をへて生成した企業社会や学校化社会が、若者たちの活動の場となったムラそのものを解体することで運動は収束の刻をむかえていくが、多様性という種子は、80年代以降、やまがたの街に花開いた映画文化という領野に受け継がれていく。そしてさらに、その映画という回路を経て、やまがたの次世代に手渡されていった。そう考えると、私たちゼロ年代以降のとりくみは、第三世代の活動にあたることになる。
近年、人文・芸術など、多様性の担保にまつわる人びとの営みを軽視する風潮がじわりとひろがっている。やまがたでも他人事ではない。だが、絶望する必要はない。上記のとおり、私たちはこっそり、しかし着実に、先人たちの種子を受け継いできた。今後もこの場所で種をまき続けるだろう。私たちは死なない。
(『みちのく春秋』2016年春号 所収)