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「脱線」という方法。

■「子ども・若者たちの居場所づくり」活動を開始して、早くも3ヶ月が過ぎた。それまでの2年間、「不登校の子どもたちの居場所(フリースクール)」開設・運営の経験があったとはいえ、「ぷらっとほーむ」はかつてのそれとは基本コンセプトが全く異なる「居場所」。したがって現在の私たちの活動に既成のモデルは存在せず、活動の目的も方法論も、すべては試行錯誤のなか自分たち自身の手で少しずつ積み上げてくる他なかったし、またそれは今後も当分は変わらない。そこで、自分たち自身の試行錯誤の歩みを記録するという意味で、今回より、活動を通じて日々私たちが考えていること、見えてきたこと等について記録・記述し、整理・体系化する作業をすすめていきたいと思う。

■第1回目の今回は、活動している私自身の動機づけがどこにあるのか、そしてそれと関連して、私たちがどのような方法論を採用しているのか、についてまとめておきたい。活動していてよく聞かれるのが、「なぜあなたはさまざまな苦労や負担を背負い込んでまでそのような居場所づくりをしているのか?」というもの。こう聞かれるといつも当惑してしまう(そしてついおなじみのあの紋切り型「不登校/ひきこもり等は自分自身の問題」を持ちだしてしまう)のだが、実際のところ何が自分をこうした場へと動機づけているのか、自分でもうまく言語化できない。それでもあえて言葉にしてみるとすれば、それは「楽しいから」ということになるかと思う。

■では、何がそんなに「楽しい」のか。理由ははっきりしている。それは、自分たち自身のイニシアチヴのもとで何かを創りあげていくことの「楽しさ」だ。活動の理念、目的、方法論など――具体的には、「居場所」の空間設計やふるまい、思想、それらを支える組織形態や財政基盤――そのひとつひとつについて議論しあい、合意を形成し、それぞれの想いをひとつずつ目に見えるかたちにしていくこと。そこでの原則は、自分たち自身に責任があり、そのもとで自己決定が可能であるということ。したがってまた、ゆっくりじっくり自分たち自身のペースでものごとを組み立てていけるということだ。まさにこの「自分たち自身のペース」というのが、私たちの方法にとっては決定的に重要だ。

■誰かに指示されたからやること、誰かのためにやること。そうしたものに「自分自身のペース」が介在しないのは当然だ。そこに動機づけや欲望など生まれようはずがない。肝要なのは、それぞれのペース、それぞれの「遅さ」を認め合うことだ。「遅さ」とは何か。私たちなりに表現するなら、それは、思考停止しないということ。世間の「常識」「伝統」など、思考停止(=速度!)を促す言葉/制度はいたるところに蔓延している。そうした既存のレールに無意識・無葛藤に乗ってしまうのではなく、それらひとつひとつを、その根拠や妥当性にまでさかのぼって、じっくり疑ってみること、ゆっくり再考してみること。「常識」という名のレールから、あえて外れること。つまり、「脱線」すること! 

■「脱線」なる言葉に、不真面目さや不謹慎さを感じ取られる向きもあろう。だが、私たちはあえてこの「脱線」というスタンスを保持していきたいと思う。レールから外れた場所、システムの縁辺からしか見えない風景、そうした場所にこそ「矛盾」や「怨念」は蓄積される。であればこそ、そこには私たちがよりよき社会――私たちひとりひとりが幸福に生きていけるような社会――を構想し構築し運営していくに際しての貴重なヒントや可能性が眠っていると言えるだろう。そうした場所――それを私は「脱線空間」と呼んでみたい。「ぷらっとほーむ」もそのひとつだ――を選択し、そこに留まり、粘り強くじっくり思索し議論し続けていくこと。そしてその過程を経て、少しずつお互いの共通前提を創り上げていくこと。これこそが、「ぷらっとほーむ」の方法なのだ。

※『ぷらっとほーむ通信』003号(2003年7月号) 所収

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