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「見えないもの」を見るために。

■半ば私事になるが、この4月より大学院生として、週に数回、庄内通いの生活を送っている。所属は社会学のゼミで、「居場所スタッフとは誰であり、彼(女)が行っているのはいかなる実践なのか」ということを、ライフストーリー法やナラティヴ・アプローチ、またはエスノメソドロジー的手法などを用いて、さまざまな角度から言語化し分析し記述する、といった研究テーマを設定している。まだ始まって1ヶ月だが、早くも自分の内側では興味深い変化が現れつつある。

■「興味深い変化」とは何か。それは、端的に言うと「見えないものが見えはじめた」ということだ。これまで5年間、わたし自身が「居場所スタッフ」として「居場所づくり」の実践に関与してきたわけだが、運動の渦中にある者、ある特定の価値を発信する者という立ち位置のゆえに、自分たちが行っているそれを、客観的に、冷めた目で見ることができずにきた。考えてみれば、それは「当たり前」のことなのだが、わたしにはこの「見えなさ」がずっと苦痛だった。

■長らく続くこの「苦痛」から逃れるにはどうすればよいか。どうすれば、自分たち自身の姿をより客観的に、冷ややかなまなざしで見つめ、それらを冷静に把握し批評することができるのか。脳内にわだかまり続けてきたこの課題に対処しようとあがきもがく過程に、今回の「研究者役割の取得」がある。いつもは見えないものを見るにはどうすればよいか。その答えのひとつがこうだ。いつもとは違う角度、異なる視点からいつもと同じものを見つめてみよう、と。

■さてでは、その「研究者」というまなざしのもとでいったい何が見えつつあるのか。一言でいうなら、それは、わたしたちが暗黙の内、無意識の内に前提にしてしまっているような、さまざまな価値判断――とりわけ、自己肯定的なそれ――が存在していたのだということだ。ある特定の価値を社会的に普及させようという運動なわけだから価値判断はあって当然だが、自己肯定が行き過ぎると、運動へのチェックが働かなくなる。大概、その手の運動は腐る。

■とはいえ、「研究者」によって見えるようになった何かがあるとするなら、それは「実践者」であったときに見えていた何かが、見えなくなったということとコインの表裏であるはずである。わたしたちは何かを選ぶことで、それとは別の何かを失う、そういう存在だ。要はどちらを優先するかだ。少なくともわたしは、運動の速度よりも、それへのチェックの確実さを選択した。その結果見えるようになった風景を、今後は少しずつ記述していきたいと思う。 

※『ぷらっとほーむ通信』037号(2006年05月号) 所収 

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