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居場所づくりは終わらない。

■先日、福島・山形で活動する居場所づくりの仲間たちが開催した合同研修会に参加してきた。研修会は今回で四回目。一年前も書いた通り、自分たちの活動を振り返ることのできる稀有な機会であるということと、同じような活動に取り組む同世代と久しぶりに会えるということが楽しみで、心弾ませて会場に向かった私たちである。だが、あれほど会いたかった人たちの一部は既に活動を去り(あるいは休止しており)、せっかく会えた仲間たちもどこかすっかり疲弊していた。

■なぜ、とは思いながらも、私はどこかで既視感を覚えずにはいられない。情報誌の取材やシンポジウム準備の際、私は県内各地のオルタナティヴな若い人たちと知り合い、彼(女)らを突き動かす情熱や思いに打たれたものだった。だが、半年が過ぎ一年が過ぎ去ったとき、その彼(女)らのうちの一部の者しか現場には残っていない。どの人も、活動を通じて心身ともにズタズタに疲弊しきって、活動を去っていった。同じことが、ここでも生じていたのだった。

■こんなことを言うと、「もともと自分自身の自発的な意思でもって参画している領域で、つまり、好きでやっているはずのNPO・市民活動の領域で、そうした精神的なストレスや身体的な磨耗など起こるわけがない」と思われるかもしれない。だが、それは端的に誤りである。「好きでやっているのに」ではなく、「好きでやっているから」こそ、私たちは過剰に疲弊してしまうのだ。これは、いったいどういうことだろうか。

■推察するに、世の人々の多くは、必ずしも自分の好きな仕事や活動に就けているわけではないだろう。だからこそ「好きでやっている」仕事や活動には、羨望や嫉妬のまなざしが向けられがちだ。好きでもない仕事に取り組まざるを得ない人々からしてみたら、「好きでやっている」連中の葛藤や苦悩など、贅沢の極みでしかなかろう。そういう視線を無意識に察知してしまうがゆえに、私たちは本当に些細な愚痴や不平すらをも封じ込められてしまう。逃げ場がなくなってしまうのだ。

■容易ならざるジレンマ。だが、あきらめはすまい。私たちが消耗し尽くしてしまわないための方途を、私はこれから探っていこうと思う。もうこれ以上、せっかく出会えた貴重な仲間たちを失いたくはない。とはいえ、希望は存在する。それは、この研修会の存在だ。二日間のハードな日程にもかかわらず、私たちは笑顔で別れた。また次に仲間たちに会える場があるということ、会いたいと思う仲間がいること。その単純な事実が、私たちに新たな動機を与えてくれるだろう。 

※『ぷらっとほーむ通信』024号(2005年04月号) 所収

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