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居場所の「シャドウ・ワーク」

■「居場所の運営」などというと、どうしてもスタッフの関わりだとかその振舞いかただとか――それが大事なのはもちろんだが――そこばかりに意識が向いてしまいがちで、その「スタッフ‐利用者」関係、あるいは「スタッフ‐スタッフ」関係の記述ばかり積み重ねてしまう。それが悪いわけではないが、今回はあえてそれを禁欲し、居場所のもうひとつの関係性である、「利用者‐利用者」関係について、日ごろから感じていることを、あれこれ記述してみようと思う。

■居場所で現前する利用メンバーどうしの関係性を(こっそり)観察していると、いろんなことに気づかされる。例えば、仕事や人間関係で悩みを抱えたあるメンバー。その人の内面の吐露に対して、「いやわたしは違うと思う」と自分の見解を述べる人、「大変だったね、もしよかったら話してみてよ」とフォローに入る人、少人数の話しやすい雰囲気を作るためにそっとそこから離れる人、適度な収束地点を見出して話題を巧みに転換する人など、本当にさまざまだ。

■彼(女)らに共通しているのは、それぞれが――程度の差はあれ――場の文脈を読んだうえで、その場の関係性のなかで必要とされている「自分の役割」みたいなものを半ば自覚的に演じているということではないかと思う。こうしたありかたこそ、わたしたちスタッフが自ら体現しようと欲望し、そのために尽力している価値でもあるわけで、そう考えると、この居場所の「雰囲気」は、まさにわたしたち――利用メンバーとスタッフと――が、共同で構築してきたものだということになる。

■だが一方でこうも思うのだ。例えば、複数の人びとからなる関係性があったとする。そこで誰か特定の人が気持ちのいい思いをしたとするなら、それ以外の別の誰かがそのためのコストを支払っている。そうした感情労働はなかなか人に気づかれにくい。であるがゆえに、それは「シャドウ・ワーク」と化してしまいがちだ。評価や承認が欲しいわけではなくとも、誰にも知られず何かを続けることはつらい。居場所の「利用者‐利用者」という関係性においても、事情はまったく同じである。

■誰も気づかないところで、こっそりみんなが「ただ乗り」するための「シャドウ・ワーク」をこなしている人がいる。「無理しないで」とか言うのはお門違いだ。彼(女)はそれを自らの役割として選択してやっている。わたしたちにできることは、そのふるまいをしっかり見届けてやること、それに言葉を与えてやること、そしてそのうえで、「あなたの頑張りをちゃんと見てるよ」とこっそり、だけどしっかり自分の言葉で伝えてあげること、それだけなのである。

※『ぷらっとほーむ通信』032号(2005年12月号) 所収

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