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あれから10年も、この先10年も。

■10年前、わたしは県立高校で講師をしていた。勤務先は母校だったが、10年ぶりのその空間がなぜか当時の自分には違和感だらけ、しかもそのもやもやを口にできる相手もうまくつくれず、悶々としていたころだった。偶然目にした新聞記事に「山形で初のフリースクール開設」の文字を見つけ、不登校運動に参入したのが2000年12月。それからは、翌年4月の開設に向けて、県立高校講師とフリースクール開設準備という二足のわらじ生活が始まった。

■準備はそこそこ順調にすすみ、いよいよ外部に向けて説明会を開くことになった。確かそれは2月11日。会場は江南公民館(山形市)。そこでわたしは、はじめて、松井愛さんと出会った。新庄の地で専門学校の教師をされている、という紹介を受けたが、正直いうとそのときは「ふうん」という感じだった。当時は「ボランティア希望」と称していろんな人たちがわたしたちのもとを訪れ、それぞれの願望やら期待やらを口にした。そういう有象無象の一人だと思った。

■わたしが本当の意味で愛さんに出会えたのは、もっとずっと後のことだ。春になり、無事にフリースクールもスタート。ところが、事務局は、活動に関わる人びとの多様さをうまくマネジメントすることができず、鳴り止まないクレームに日々ずるずると疲弊していった。わたし自身、給与の保証すらない、先の見えない日々に、だんだん自暴自棄になり始めていた。当時の彼女も「お人好しもいいところね」と言い残し去っていった。もうどうでもいいや、そう思っていた。

■そんなある日、1通のメールが届いた。愛さんからだった。正確な文面は思い出せないが、「大丈夫ですか。何か話しませんか」と、確かそんなふうだったと思う。改めて会ったわたしたちは、そのまま6時間(!)休みなしで喋り倒した。当時は、代表が体調不良で倒れ、やむなくわたしが代表を代行していた時期だった。みんなが代表を心配していた中、彼女だけが、代表の重責のもとパニック状態に陥っていたわたしの存在に気づいてくれた。救われた、と思った。

■あのメールがなかったら、わたしはきっと誰にも頼れぬまま、周囲への憎悪と怨念をたぎらせながら、自滅への道を転がり落ちていただろう。あのときわたしは、彼女からパスを受け取り、世界の中に居場所を得た。わたしは彼女に感謝を伝えたかった。ならば、受け取ったパスを、次の誰かに送り届ければよい。あなたの方法がいいなって思ったから、わたしも同じようにしてみるね、というわけだ。そうしたパス送りの結果、現在の「ぷらほ」があるのである。

※『ぷらっとほーむ通信』94号(2011年2月号) 所収

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