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「社会問題」とはなにか

■わたしたちの困りごと
 「社会問題」ときいてあなたはどんなものを思い浮かべますか? 気候変動、地方消滅、新型コロナウィルス感染拡大、カルト汚染――もちろんそれらは現代日本が抱える代表的な「社会問題」の数々ですが、他にもさまざまな問題がわたしたちの周りには存在しています。誰もそれらと無関係には生きられません。
 さてでは、「社会問題」というものをどう捉えればよいのでしょうか。まずは身近なところから考えてみましょう。あなたがいま、困っていること、悩んでいること、手を焼いていたり不便や不都合を感じたりしていること、何とかしなきゃ、許せない、これはおかしい等と思っていることはありませんか?
 試しに、それらを手もとに書き出してみてください。あなたがそこに書き出したもの、それが「社会問題」のタネです。「社会問題」の「社会」とは人の集まりのこと。人が2人以上いればそこには「社会」がなりたち、その人びとのあいだに共通する何らかの困りごとがあれば、それは「社会問題」になるのです。
 例えば、筆者は読書が趣味で書店めぐりが日々の楽しみですが、山形県内には東京や仙台にはあるような大型書店はありません。インターネットがあれば本は買えますが、でも、ぶらぶら店頭を見て回り、未知の本と出逢う楽しみは街の書店ならではのもの。県内ではそれが味わえないというのが、筆者の悩みです。
 えっ、でも、そんな個人的なことは「社会問題」とは言わないんじゃないの、と思ったあなた。書店というのは、人びとが世界や社会についての知識や情報と出会うためのとても大事なインフラです。それが都会には豊富だけど田舎には乏しいのであれば、知識や情報の不平等が存在しているということになります。
 これって立派な「社会問題」のタネですよね(先ほど出した自分の困りごとがどういう「社会問題」になりうるか、改めて考えてみてください)。こんなふうに、「社会問題」とはどこか遠いところに客観的に存在しているわけではなく、人びとがそれぞれにもっている困りごとが「社会問題」になっていくのです。
 
■「社会問題」はどうやって生まれるか
 ところで、自分ひとりが抱えているトラブル――わたしの問題――が「社会問題」――わたしたちの問題――になっていくためには、わたしの問題がどこかでみんなと共有され、公共化される必要があります。きっかけはさまざまですが、そのトラブルの当事者あるいは支援者が「声をあげる」ことが多いでしょう。
 実際そこで困っている当事者、あるいはその場に居合わせ、ほっておけないと感じた非当事者が「苦しい」「やめてくれ」と異議申し立てを行う。訴えの相手は社会であったり国家であったりします。それを受けて彼(女)らが踏んづけているその足をどけてくれればいいのですが、そう簡単にはいきません。
 当事者や支援者の声はか細く、社会や国家の耳は往々にして遠いからです。そこで「声をあげる」側は、その「声」をより確実に届けるために、物理的にどこかに集まり、ひとつのかたまりとなって異議申し立てを行うようになります。この集団での異議申し立てが「社会運動」と呼ばれるものです。
 わかりやすいイメージは、街頭でのデモでしょう。何らかの争点――例えば、原発増設――についてたくさんの人びとが首相官邸や国会を取り囲み、異議申し立てをしていれば、当然それをメディアは報道するし、そうなれば多くの人びとが目にします。その訴えに共感し、参加し始める人びとも生まれてくるでしょう。
 そうやって、「社会運動」の訴え――いま、ここに〇〇という問題がある。これを何とかしてくれ――が多くの人びとの考えや意識に影響を及ぼし、共有されていくと、当初はどこかの誰かひとりの個人的なトラブルだったものが、わたしたちの問題、すなわち「社会問題」へと育っていくことになります。
 この意味で、「社会問題」というのは人びと――とりわけ「社会運動」――によってつくられるもの、ということになります。社会学ではこれを「社会問題の構築」と呼びます。このため、「社会問題」を扱う際には、それが誰のいかなる意図のもとで構築されたものであるかを考えることが重要なのです。
 
■「社会運動」は何をしているか
 「社会運動」が人びとに訴える「社会問題」。その「社会問題」のタネとなる困りごとというのは、どこから、どんなふうに生まれてくるのでしょうか。そしてそれを解決するのに、いったい誰が責任を負っているのでしょうか。言い換えると、「社会運動」は誰に向かって何を求めているのでしょうか?
 そもそもわたしたち個々が抱えるトラブルというのは、その困りごとに対し、対処しうるだけの資源がなかったり乏しかったりするために生じているものです。そうした状況の人びとに対し、何らかの支援資源があてがわれることがなければ、そのニーズは解決されないまま、拡大・深刻化していくばかりでしょう。
 ではどうしたらよいか。通常なら、必要な資源は市場が供給してくれるはず。市場メカニズムが発達した近代社会の人びとはそう期待します。そこにニーズがあれば、それを満たす商品が供給される。人びとのそうしたふるまいの結果、需給バランスが最適で、最も効率のよい資源配分が達成されるというわけです。
 しかし実際には、そうしたマッチングに失敗し、需要に対して供給がなされず、困りごとが放置されたままになってしまうようなケースも存在します。介護や看護、保育など、ケア人材の不足という問題などはその最たるものでしょう。市場メカニズムだけでは解けないこうした問題の存在を「市場の失敗」といいます。
 つまり、近代社会では市場が重視されているけれども、それが万能ではないために、必然的に「社会問題」が生まれてしまうのだということです。ではどうしたらよいか。「市場の失敗」に対処するべく期待され、権限を与えられているのが政府です。政府を動かし、「社会問題」を解決してもらうしかありません。
 これが「社会運動」の考えかたで、このため「社会運動」の多くは、その訴えを政府や国家に向け、彼(女)らを動かしてその問題を解決しうる政策や制度、法律などをつくらせることを目標としていきます。それが成功すれば、法律や制度が新たにつくられ、支援資源が困っている人びとに届き、問題が解決するわけです。
 
■「市民活動」は何をしているか
 とはいえ、政府や国家というのは――法律や政令に基づいてなりたち、広域人口を対象に動いているものであるため――図体が大きく、動きがゆっくりで、迅速で繊細な対応はなかなかに困難だったりします。中の人たち(官僚や役人)にやる気や能力があってさえそうで、これを「政府の失敗」と言います。
 ではどうするか。このことが正面から問われることになったできごとが、阪神淡路大震災(1995年)でした。この未曽有の直下型地震では大都市・神戸が破壊され、政府や国家だけで救援や復興を行うのは不可能であったため、無数の困りごとに対しボランティアの人びとが(自らを含む)支援資源を供給しました。
 極限状況では、行政に苦情をいっているだけで状況は改善しません。そんなときは、人びとが自ら連帯し、それぞれの強みを活かして手・足・頭を動かし、協同で問題解決にあたることが必要です。こうしたかまえで動きだした人びとの集まりを「市民社会」、またそのとりくみを「市民活動」といいます。
 「社会運動」に対しての「市民活動」のユニークさは、国家や政府に訴えて彼(女)らが何かしてくれるのを待つのではなく、「社会問題」に対して自分たちで率先してその解決方法を模索し、実際にやってしまう点にあります。そうした動きを促進するため、1998年にはNPO法がつくられました。
 いつもの通学路に巨大な穴があいていたとして、「何とかして」と行政窓口に連絡するのが従来の一般的な対処法だとすると、「市民活動」のそれは、人びとが集い、協力してそれを自力修復してしまうようなものです。もちろん「市民活動」も万能ではないため、「失敗」の場合にはカバーしてもらわねばなりません。
 このように、「社会問題」の解決に際しては、市場を通じた人びとの自助努力、その限界=「市場の失敗」に対する政府の公助、さらにその限界=「政府の失敗」に対する市民活動などの共助と、三つの領域――企業と政府、市民活動――が関わっており、その協業や協働が重要なテーマになっているのです。

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