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〈他者〉が繋がり合う居場所のために。

■年度がかわり、メンバーそれぞれの立ち位置や境遇にさまざまな変化があったり、または新しいメンバーが増えたりと、わたしたちの居場所にも「新しい風」が吹き始めたような、そんな今日この頃である。居場所の内実とは、結局のところ、そこに集う「人」にすぎないわけで、当然、メンバーの顔ぶれが――あるいはそのメンバーがそこでさらす「顔」そのものが――変化すれば、居場所そのものの雰囲気や容貌も変化して当然。そうした変容になかで感じたことを、今回は記述する。

■いつも書いているように、わたしたちの居場所では、それぞれの思いや考えを丁寧に言語化し、それを相互に共有することで、お互いの共通前提を構築していくということを大事にしている。「以心伝心」ではなく、わたしたちそれぞれが「以心伝心が可能だ」と無意識に想定してしまっているような価値前提を、明示的な言葉に書き落として、誰もが目に見える形にすること。そして、そうした言語化の作業を通じて、それぞれの差異を――平準化するのではなく――ただ自覚すること。

■そうした作業を日常的に経ることで、ともに在るわたしたちの間には、少しずつ共通前提――「わたしたちに共通しているのは何か、相互に異なっているのは何か」に関する共通了解――ができあがっていく。だが、そうした共通了解の網の目が緊密になり、共通言語による共同性、同じ物語と共有する解釈共同体の凝集性が確立していけばいくほど、そうした言語コードを共有する者たちの共同体(運動)と、それを共有しない残余(一般社会)との間のズレは拡大し、敷居は高くなる。

■実はここに問題の萌芽がある。普段より言語化を心がけ、その努力のもとにオリジナルな共通言語を積み上げてきたという自負のゆえに、わたしたちはつい自らの言語を過大評価したり、それゆえの優越感を自意識の内部に育んでしまったりしがちだ。そうした文脈では、「あの人たちはまるでダメだね」という他者評価は、「それがわかるわたしたちってすごいよね」という自己評価のためのアリバイへと直結する。努力ゆえにこそ、それを欠く者に対し怨念や憎悪をつのらせてしまうのだ。

■新たに知り合った人々の未知の側面、あるいは既知の人々の未知の側面に出遭うとき、わたしたちは既存の解釈コードを用いてそれらを価値判断する。注意すべきは、その際に、ある種の「謙虚さ」を失わないということだ。言語の共有が不可能な〈他者〉への「寛容さ」といってもよい。自分たちの「正しさ」の限界性を自覚し、それとは異なる複数の「正しさ」と(距離を保ちつつ)共生していくこと。そうした差異への耐性こそが、選択共同体たるわたしたちの課題なのだ。 

※『ぷらっとほーむ通信』026号(2005年06月号) 所収

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