「こどもの貧困」とはなにか
■『万引き家族』と『誰も知らない』
平成30年目の年であった2018年、ある映画がカンヌ国際映画祭でパルムドール(最高賞)を受賞しました。是枝裕和監督の『万引き家族』という作品です。映画とは、国際的な文脈では、その国の社会や文化が描きだされたもの。そこに現代日本の一断面が映し出されているとされ、評価されたのでした。
『万引き家族』は、都会の片隅で暮らすある家族――文字通り、万引きなどで生活を成り立たせている5人家族――の物語。祖母(樹木希林)の持ち家と年金を頼りに、身体が悪くて働けない父(リリー・フランキー)、その妻(安藤サクラ)と息子、親戚の少女(松岡茉優)が身を寄せ合って暮らしています。
泥棒がなりわいのこの家族、ある寒い夜に近隣の団地の廊下で震える幼い女の子を見つけ、見かねて家に連れ帰ります。身体じゅう傷だらけの彼女の境遇を思いやり、家族はこの子を娘として育てていくことにしますが、やがてそれが世間に発覚し、この家族の秘密が明らかになっていく――。そんな物語です。
是枝監督は家族映画の名手で、彼には似た感じの過去作品『誰も知らない』(2004年)があります。こちらも、都会の片隅のある家族――シングルマザーとその4人の子どもたち――の物語で、母親役がYOU、長男役が柳楽優弥(当時12歳)です。母親が失踪し、残された子どもたちのサバイバルが描かれます。
子どもたちの貧困状況を描いたこの『誰も知らない』には、モチーフとなったある事件があります。巣鴨置き去り事件(1988年)といって、育児放棄による貧困の果てに子どもがなくなるという痛ましい事件でした。当時、貧困は「親がいなくなる」などの特殊状況下でしかおこりえないものでした。
巣鴨置き去り事件――『誰も知らない』の16年前――から『万引き家族』までは、ちょうど30年の月日が流れています(平成年間にほぼ重なっています)。そう考えると、平成というのは、「親がいれば貧困などありえない」から「親がそろっていても貧困」という社会への転落の30年間だったといえるでしょう。
■貧困をどう捉えるか
最近はだいぶ認識が変わってきたようですが、現代日本の貧困を話題にすると、ちょっと前までは「先進国・日本で貧困なんてありえない」「貧困というのはアフリカなど第三世界の現実であって、あのような飢餓や悪環境は日本の社会には存在しない」といった反応が返ってくるのが常でした。
こうした否認のベースになっているのは、貧困とは最低限の人間的生活がおくれていない状態で、それは例えば飢餓や栄養不良、病気の蔓延、それゆえの高い乳幼児死亡率や低い平均寿命、それらの背景要因である悪環境や文盲のことだという貧困イメージです。確かにこれは、第三世界の貧困の実態に重なります。
とはいえ、こうした貧困――「絶対的貧困」と呼ばれます――だけが貧困のすべてというわけではありません。発展途上国に顕著な「絶対的貧困」とは違ったかたちで、先進諸国もまたその社会のうちに貧困問題を抱えています。この先進諸国の貧困を捉えるための概念が「相対的貧困」です。
「相対的貧困」とは、ある国/社会の平均的生活水準と比較して所得が著しく低い状態のこと。この定義のもと、先進国クラブのOECD(経済協力開発機構)が各国の「相対的貧困率」を算出・公表しています。日本は長らく貧困の存在を否認してきましたが、政権交代後の2009年にようやく算出・公表しました。
「相対的貧困率」とは、等価可処分所得(世帯の可処分所得を世帯人数の平方根で割って算出)が全人口の中央値の半分未満の世帯員を「相対的貧困者」として、その全人口に占める割合を指していいます。とはいえ、それだけ言われても何のことかわかりづらいと思いますので、わかりやすく言い換えてみます。
まず、国民一人ひとりの所得を仮に計算し(これが等価可処分所得)、多い順に並べます。そのちょうど真ん中の人の値(=中央値)の半分を「貧困ライン」と呼び、それに満たない人が「相対的貧困者」、その割合が「相対的貧困率」です。同じ操作を18歳未満人口のみで行った場合が「子どもの貧困率」です。
■現代日本の貧困
さて、ではこの「相対的貧困」を、現代日本の具体的な数値で見ていきましょう。私たちの手許にあるのは、貧困が最もひどかった2012年と、その後「子どもの貧困対策推進法」(2014年施行)を経た2018年の統計データ(厚生労働省「国民生活基礎調査」)です。
まずそれぞれの年の等価可処分所得の中央値を見ると、2012年が年244万円(月20万円)、18年が年254万円(月21万円)となっています。これらの1/2が貧困ライン――2012年は年122万円(月10万円)、18年は年127万円(月10.5万円)――で、それ以下の人が「相対的貧困者」です。
この「相対的貧困者」が人口に占める割合が「相対的貧困率」でした。2012年はこれが16.1%(6人に1人)、18年は15.4%(7人に1人)。18歳未満の子どもだけで集計した「子どもの貧困率」だと、2012年は16.3%、18年は13.5%。「ひとり親世帯の貧困率」は48.1%(2人に1人)に及びます。
ちょっとだけ想像してみてください。月10万円ほどで生活を成り立たせることは可能でしょうか。衣食住を賄うためには、家賃や光熱費、食費が必要で、それ以外にも生きていればさまざまな出費が必要です(医療費、交通費、通信費など)。でも、人は最低限の衣食住だけで生きているわけではありません。
社会のなかで生きていくに際し、私たちはいろんなところでさまざまな人びとと「つきあい」をしています。そうした社交にもお金が必要です。貧困ゆえにお金がなく、社交を断念せざるを得なくなれば、そこには単なる経済的貧困のみならず、関係の貧困、すなわち社会的孤立という問題が立ち現れてくるでしょう。
以上が、現代日本の「相対的貧困」の概況ですが、それだけが日本の貧困のすべてではありません。先進国とされているにもかかわらず、現代日本には「絶対的貧困」も存在しています。2011年のデータですが、年に1,746人(食料不足45人+栄養失調1,701人)もの方が餓死しているという現実があります。
■貧困と闘う市民のとりくみ
私たちには「日本国憲法」があり、その第25条には生存権(健康で文化的な最低限度の生活をおくる権利)が規定されていますので、本来であれば貧困などありえないはずです。そうなった場合に、その人の生活保障を行うよう――例えば、生活保護を提供する等――国家に命じているのがこの生存権だからです。
ところが、現代日本では政府が抑制的でそうした公助がか細いうえに、社会では保護を受けている人びとへのバッシングさえもが常態化しています。これでは必要な人も「助けて」と言いづらい。現に、生活保護の捕捉率(利用資格がある人のうち現に利用している人の割合)は2割ていどと言われています。
公助が機能していない現状のなか、現代日本では共助が活発化しています。とりわけ「こどもの貧困」が言上げされた2010年代以降、その傾向が顕著です。貧困それ自体は(この後の章で見ていくように)雇用の劣化によるもので、それはまず「ワーキングプア」(働いているのに貧困)として問題化されました。
それが2000年代後半のことで、最終的に民主党など労働政党による政権交代(2009年)へと至りました。とはいえ、貧困問題に対しては「自己責任論」が基本的な論調で社会全体の意識は低調なまま。この「自己責任論」を無効化していったのが「こども」への着目でした。「こども」に責任は問えないからです。
かくして、「こどもの貧困」対策にとりくむボランティア・NPOなどの市民活動が各地で生まれていきました。代表的な実践が「こども食堂」ならびに「無料塾(学習支援)」です。前者は山形県内でも山形市を皮切りに2016年からとりくみが始まり、現在42か所ほどで実施されていると言われています。
個々の支援活動のみならず、それを支える中間支援の活動も活発です(全国では「全国子ども食堂支援センター・むすびえ」、県内では「山形県子どもの居場所づくりサポートセンター」がそれぞれ稼働中)。ただ、所得の低下が根本原因ゆえ、これらは対症療法にすぎず、最終的には公助の立て直しが求められています。
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