11.僕らは駅伝高校生の研修生
今日は多目的広場でのフリー練習だった。
前と同じで自分の好きなペースで疲れない程度に走る。一時間ほどで解散になった。筋肉痛が全然取れない僕にはこのメリハリ練習法は救いだった。もし、昨日のようなきつい練習を毎日続けたら、脚の筋肉は間違いなくちぎれている。間にフリー練習を挟んでても、明日のきつい練習に憂鬱さを感じ始めてるぐらいだから、あんな厳しい練習を毎日するなんて絶対に耐えられない。
新藤は今日も走って帰っていった。筋肉痛はないらしい。先輩達もそんなに筋肉痛はしてないらしい。どれだけの練習を積んだらそうなれるんだろう。ただただ不思議でしょうがなかった。
「すぐに慣れるよ」と大志先輩は言ったけど、本当にそんな日が来るんだろうか。
その翌日、集合場所はまた多目的広場だった。
今日の盛男さんはキーパーの他に、八つのコーンが入った袋を持ってきていた。芝生広場の四隅に間隔を空けた二つのコーンを置いて周回コースを造った。「ちゃんとコーンの外側を走れよ」と盛男さんは釘を刺してきた。
ペースメーカーのキャプテンを先頭にして、後は適当に並んだ。
ビルドアップ走をするとの事だった。最初はゆっくり走って、どんどんペースを速くしていく練習法だ。
「良豪についていけばいいからな」
真後ろからの声だった。びっくりして振り返ると盛男さんも並んでいた。
「皆の後ろを追い駆けるから。気にしないでいいよ」とニコニコしながら盛男さんが言う。そう言われても気にしてしまう。大丈夫なの?
「いつもの事だから。盛男さんは練習参加型コーチなんだ」と大志先輩が言った。
練習に参加するコーチって初めてだ。なんか親近感が湧いた。後ろの盛男さんを見ると、目の合った盛男さんがにんまり笑った。
「哲哉、俺より先に脱落したらペナルティだからな」
顔が固まったのが自分でも分かった。
キャプテンの掛け声で列が走り出した。緩やかなペースだった。これなら楽勝だ。
2周を走り終えると「1秒上げて」と最後尾の盛男さんが声を上げた。2周ごとにペースは速くなった。身体がじんわりと暖まって重く感じた脚も少しは動くようになってきた。
和気藹々とした感じで走りは続いた。「きつい」とか「筋肉痛やばい」とか「腹へった」とか口々に言っていたけど、10周目を過ぎてから口数は少なくなってきて、16周辺りから全員が無言になった。足音とリズムのいい呼吸音だけが響いた。
「このスピードで最後までいくぞ」
盛男さんも息を切らしている。最初と比べるとペースはかなり速かった。苦しかった。もう無理だ。
「哲哉、今ここで離されたら置いていかれるだけだぞ。頑張れ」
前になった盛男さんが言った。盛男さんは僕の隣にきた。
「背中が曲がってる。伸ばして。走りに集中」
盛男さんは息を切らしながらも何度も声を掛けてきた。まだまだ余裕がありそうだった。
「呼吸のリズムが乱れてるよ。また背筋が曲がってる」
「顎が上がってる。少し下げよう。はい、背筋を伸ばす」
「テンポに意識。呼吸の間隔と腕振りを合わせる」
もうマンツーマン指導だった。
この人の体力には驚いた。ここまで走ってきてペースはかなり速い。なのに、この人はペースについていきながらも皆の走りを見ながら声を出している。僕が遅れそうになってからは、もうずっと僕を気にしている。正直うざかったけど、盛男さんに言われた通りにした。呼吸を意識して腕振りと合わせてテンポよく走る。背筋を伸ばす。
でも、楽には感じない。逆に苦しく感じる。
「哲哉、頑張れ」
新藤の声が聞こえた。新藤は先頭になっていて顔だけこっちを向けていた。その顔は疲れてるようには見えない。なんとか頷いて応えたけど、息は苦しいし、脚はさらに重くなっている。ついていきたいけど身体が言う事を聞いてくれない。
僕はだんだんと列から離れていった。少し経つと賢人と省吾も列から離れた。
結局、最後まで列に残ったのは先輩達と新藤と盛男さんだった。僕は周回遅れをとってしまった。ショックだけど、何より盛男さんが速かった事がショックだった。若々しく見えても、盛男さんは僕の倍以上も歳を取ったおじさん。しかもまだ余力はありそうだった。
休憩をしながら盛男さんは説明を入れた。誤差はあるけど、これで約1万mを走ったとの事だった。
「このペースは全国で恥をかくからな。これについていけないと話にならんぞ」
穏やかな声の中には辛辣な言葉が含まれていた。悔しいけどその通りだった。新藤は全く疲れた顔をしてないし、先輩三人も盛男さんも息は落ち着いている。辛そうなのは遅れた僕ら三人だった。このペースは高校生ランナーにとっては朝飯前。話にならない。
「哲哉、ちょっといいか」
盛男さんだった。顔が笑ってないからドキッとした。
「走る時は背筋を意識して。何度も言ってるだろ?」
盛男さんは背筋を伸ばして走る事の大切さを話してきた。背筋が曲がると呼吸も力も滞ってしまう。悪い事のオンパレードだと言った。
「背筋を伸ばして上半身を腰に乗せるイメージ。その感覚を意識して走るんだぞ」
そう言われても全然わからない。
上半身を腰に乗せるイメージ、って、もう上半身は腰に乗ってるし。
僕の表情で察したのか、盛男さんが急に唸りながら考え始めた。
すると、そこにジョグをするキャプテンが通りかかった。
「お、ちょうど良かった」
盛男さんはキャプテンを指差した。
「あれを参考にするといいよ」
キャプテンを見た。
確かに背筋がピンと伸びている。キャプテンを見ると分かりやすかった。
だけど、前から思ってたけどキャプテンの走り方だけは真似したくなかった。正直、かっこよくない。
むしろ、不気味だった。動いているのは手足だけで、肩は固まって、首も顔も揺れていないし、目線は真っ直ぐ。それで無表情。まるで手足の動きだけをプログラミングされたロボットみたいだった。
「あの走りは完璧だよ。体幹の力を十二分に手足に伝えているから省エネで走る事ができる。あれができるから良豪は最後まで粘り強い走りができるんだ」
キャプテンがどんどん迫ってきた。あの無表情の顔が、魚の顔に見えてきて気味が悪い。
「まあ、見ても分かりづらいと思うけどな。自分で走ってみて感じてみろ。その感覚を掴んでからまた良豪の走りを見たらよく分かるから。とにかく自分の身体に常に意識を持つんだぞ」
そう言って盛男さんは去っていった。その後にすぐキャプテンが走り過ぎていったので、僕はその背中を追い駆けた。
背筋を伸ばして上半身を腰に乗せるイメージ。
キャプテンの背中がぶれないように意識して走った。
すると、ぶわっはっはっ、とすぐそこで亮先輩が僕を指さして大爆笑していた。
「ちょー似てる!」
その騒ぎにキャプテンが振り返ってきたので、僕は慌てて走るのを止めた。やり過ごす為に素知らぬふりして、今度は自分なりに背筋を伸ばして走ってみる。さっき亮先輩に似ていると言われたからフォームはいい線をいっているはず。
でも、やっぱりよく分からなかった。上半身はもう腰に乗ってるのにどうイメージしたらいいんだろう。
肩に手が置かれた。びっくりして見ると、そこには亮先輩がいた。まだケタケタ笑っている。
「そっくりだったぞ。この調子でな」
そう言うと亮先輩は笑いながら皆の所へと戻っていった。
視線を感じた。まだキャプテンがこっちを見ていたので、慌てて僕も皆の所に戻った。
次はインターバル走だった。1周走って、半周ジョグ。それを決められた本数まで続けていく。
盛男さんの掛け声で皆が一斉に走り出す。最初から新藤が抜け出していく。それに皆が食らいつきにいく。でも誰もついていけない。僕はその様子を最後尾で見届ける。
「はい、スタート」
回数を重ねるごとに盛男さんの声に恐れるようになった。
ついていくのがやっとだった。筋肉痛で動きの遅い脚が憎い。息はとことん乱れている。僕はすぐに置き去りにされた。
「哲哉、きつかったら止めてもいいんだぞ」
前の盛男さんが言った。でも僕は止めなかった。止めたくなかった。止めたらこのまま皆にずっと置いていかれそうな気がした。遅くてもいいからやり切ろうと決めた。
途中から僕を置いてスタートするようになった。しばらくして省吾と賢人も間に合わなくなった。
結局、10本を走った。僕は9本までしか走れなかった。
休憩が終わると、「次は半周」と盛男さんは言った。盛男さんを向いた賢人の顔は、この世の終わり、と言った顏をしていた。
半周のインターバルも10本だった。半周飛ばして、半周ジョグ。これを繰り返した。半周でも新藤が先頭に立って引っ張った。新藤と先輩達が10本終わった時点で半周のインターバルは終了した。僕は7本までしか走り切れなかった。
「次は直線。全速力でいくぞ」
盛男さんの非道な声が広場に響いた。さすがに新藤も辛そうな顔をしていた。賢人に至っては、この世の終わりと言ったような顔をしている。
盛男さんの掛け声と共に皆が一斉に走り出した。
新藤の飛び出しは凄かった。新藤は短距離も抜群に速い。化け物にしか見えなかった。
新藤は毎回先頭で走り切った。最後はダントツだった。
「おまえ速すぎいい!」
キャプテンは走りながら叫んでいた。キャプテンは悔しそうだった。そんなキャプテンも僕にとっては化け物だ。僕なんか、最後はもう砂漠で遭難した人みたいだった。
盛男さんの指示で、息が落ち着くまで広場を自由に歩いた。歩くのもしんどかった。僕はその場に座り込んだ。視界がぼやけている。
「哲哉、大丈夫か?」
新藤だった。返事もできないし、顔も向けられない。今、気力を他の事に使ったら、プツン、と意識が途切れる。
「哲哉、歩け。苦しくても歩け」
盛男さんの声がする。新藤に手伝ってもらってなんとか立ち上がると、僕は俯いたまま歩いた。
足下が覚束ない。そんな僕に新藤は付き添ってくれた。「よく頑張った」と言ってくれたけど応える余裕はなかった。
「これが毎日続いてたら絶対死んでたな」
ボトルを差し出してきた賢人が言った。
間違いない。
こんな練習を毎日するなんて無理だ。僕はすでに退部していたと思う。今日も何とか乗り切れた。明日はフリーランの日で明後日は休みだ。もしこの二日間が同じ内容の練習だったらと考えると・・・死ぬと思った。
ストレッチをしながらミーティングが始まった。
「今日もかなり堪えたみたいだな。しんどいと思う。特に、初めてこの練習を経験する一年生はな。でも俺は耐えてくれとしか言えない。慣れるまではとにかく頑張ってほしい。諦めずに続けていけば身体は順応する。そうなったら、もうそれは成長しているという事だからな・・・」
盛男さんの話を全員が無言で聞いていた。盛男さんの話が終わると解散になった。
「賢人、哲哉、省吾、ちょっとこっちに来て」
盛男さんが僕らを呼んだ。盛男さんに近寄ると「どうだ?きついか?」と盛男さんは僕らに訊いてきた。「めちゃくちゃきついです」と賢人が迷いもなく言うと、盛男さんは笑った。
「ここ、続けられそうか?」
この質問に賢人は黙り込んだ。
誰も何も言わないので嫌な空気が流れた。盛男さんがまた笑った。
「いや、最初は誰だってそうだよ。あいつらもそう。皆が最初は辛くて苦しくて嫌になる。逃げ出した人もいる。去年の新入部員は六人いた。でも今は大志と亮しかいない。一昨年は五人いて、残ったのは良豪だけだ」
芝生の広場を見た。
大志先輩の合図で新藤とキャプテンと亮先輩が逆立ちを始めた。勝負しているみたいだ。
キャプテンが逆立ちしたまま亮先輩の傍に寄った。びっくりして亮先輩がバランスを崩した。その弾みで二人の脚が接触して二人は崩れ落ちた。ギャーギャー言い合っている。なんて醜い争いだ。
「今の三人は駅伝高校生の研修期間ってとこだな。覚える事は多いし、環境の変化にも慣れないといけない。省吾なんて学校が遠くなったから早起きしないといけないしな。それでこの練習だからかなりしんどいと思う。でもな、今の三人の状況はこれから何度も直面する事だからな。学校もそうだし、進学に、就職に、結婚。これから生きていく上でお前達は何度も研修生になる事が何度もある。環境も、関わる人も変わってくる。楽しい事も多い。でも辛い事も多い。逃げ出したくなる時もある。今の練習は楽しくないかもしれない。辛いだけかもしれない。でも、ここは頑張ってほしい。今を耐えたら絶対に強くなるから。ここを乗り越えたら、絶対にこれからの人生で自信になる。はっきり言って、今のお前達には伸びしろしかないからな。三人はこれからどんどん伸びていく。選手としても、人間としても・・・お前達がこれからどんな人に成長していくか俺は楽しみだよ。だから一緒に頑張ろう。お前達の成長をぜひ近くで見届けさせてほしい」
盛男さんはずっと真剣な顔で僕らの目を見て話してきた。僕は盛男さんの目を見て強く返事をした。僕の気持ちは盛男さんの熱意に点火されていた。絶対にやってやる。
「じゃあ明日も頑張ろうな」
駐車場に向かう盛男さんの背中を僕らは見届けた。
広場を向くと、まだ新藤は逆立ちをしていた。
「もう少し!あと10秒!」
大志先輩は興奮していた。グラグラ揺れる新藤の両脇で脱落した二人が屈んでいる。
ニヤニヤしながら新藤の手元をバンバン叩いている。
「やめろ!卑怯だぞ!」
新藤が苦しそうに声を上げた。それでも二人は止めようとしない。
本当にここで成長できるのか少しだけ不安になった。
つづき
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