42.どうしてそうなるの
学校の体育館に大きな垂れ幕が掛かっていた。
『県総体 陸上競技 5000m優勝 新藤孝樹』
登校する皆が、その垂れ幕を見ている。
新藤孝樹の名前を見るのはもう何度目だろう。
帰りの空港、新聞、SNS、掲示板。色んな所に新藤の名前がある。
一回でもいいから新藤になってみたかった。こんなに自分が取り上げられると、一体どんな気持ちになるんだろう。
ふと三人の女子に目がいった。三人とも体育館の陰に立って運動場の方を見ていた。
気になったので近づいてみると、運動場で走っている人が見えた。ダッシュをしていた。
速い。その速さとフォームで分かった。
新藤だった。新藤はインターバル走をしていた。
昨日、練習に復帰すると聞いた。それで早速、朝から練習なんて相変わらずストイックだ。
何時からやっているんだろう。シャツは濡れている。きっと通学も走って来ている。それからインターバル走。それで放課後も練習。身体はもつのだろうか。
新藤が走るのを止めたのは、予鈴のチャイムが鳴った時だった。慌てて体育館に走ってきた新藤が僕にやっと気づいた。
「おはよう。いつから見てたの?」
汗に濡れた笑顔が瑞々しい。汗まみれの姿なのに、僕には新鮮な湧き水をかぶったように見える。汗が似合い過ぎだ。
「ついさっきだよ。いつからやってたの?」
新藤は首を傾げてから少し考えて「30分ぐらいかな?」と言った。
疑った。この汗の量はもっと走っている。
「放課後も練習あるのに大丈夫なの?治ったばかりなんだからあまり無理しない方が──────」
「大丈夫だって・・・あ、やばい。ちょっとシャワー入ってくる。またな」
やっべ遅刻だよ、と新藤は言いながら慌てて体育館に入っていった。取り残された僕は仕方なく校舎に向かった。
心配だった。
ここ最近、新藤は故障が続いている。
盛男さんは言っていた。
故障した人は休んだ分を取り戻そうと練習に躍起になる。それで無理をしてまた故障する。
そんな選手をたくさん見てきたから、盛男さんは今のメリハリ練習スタイルを推奨して、根性論を大否定している。
地区大会は二週間後。
それから一ヶ月ちょっとでインターハイ。
焦るのは分かるけど、もうちょっと落ち着いた方がいいと思う。新藤にそう言いたいけど、僕のような遅い人間が言ってもなあ、と思う。
お前こそもっと焦って練習しろよ、
と新藤は言わないと思うけど、そう思われそうだ。
確かに僕はもっと練習しないといけないと思う。でも今の練習でも確実に速くなっているし、怪我もしていない。このままがベストのような気がする。
でも新藤はそう思わない。僕と新藤は目指すものが違い過ぎる。せめて新藤より速い人が部にいたらな、と思った。そしたら少しは聞き分けてくれそうなのに。
盛男さんは二つの事を危険視していた。
連日の過度な練習。硬い道路での無理な走り込み。
ミーティングでも、これだけはするな、と口酸っぱくして皆に言う。
それでも新藤は止めない。何度か盛男さんが新藤に忠告する所も見ている。でも「今までやってきた事なんで」と聞かない。盛男さんも無理には引き止められない。
なんせ新藤には実績がある。この練習をしてきたからこその今がある。だから言う事を聞かないのは当然だ。
それに新藤は走りに関しては頑固だ。あれだけ実力があって頑固な人を正すには、敵わないと諦めさせるほどの走力のある人しかいない。
例えば日本記録を持つ選手とか。でもそんな選手はここにいない。
現実的な良い考えが浮かばなかった。授業が始まってもずっと考えていた。でも駄目だった。ずっともやもやしてた。
それからも新藤は、毎朝、運動場でインターバル走を続けていた。
練習でもインターバル走を中心にしたスピード練習をしている。それだと一日に二回もインターバル走をしている。さらに家から走って来て、家に走って帰る。相当な練習量だ。
部の皆も新藤が早朝にインターバル走をしているのは知っていた。でも誰もどうする事もできなかった。
盛男さんはせめてもの策として、早い段階から調整メニューに変更している。でも新藤は自分の気が済むまで走り込む。取り憑かれているようだった。
あくまで推測だけど、新藤がそれだけ焦っているのには、ライバルの兵藤が原因だと思った。
全国男子駅伝で良い勝負をしたけど、結局、軍配は兵藤に上がった。
中学では勝っていた相手だったのに、高校ではまだ勝てていない。
その兵藤が今も順調に練習していっている一方で、最近の新藤は故障が続いて足止めを食らっている。それを考えると、新藤が焦る気持ちも分かった。
それには盛男さんも勘付いていた。盛男さんによると、新藤は兵頭のいる学校からもスカウトされていたそうだ。それを蹴ってこの島を選んでいる。
新藤は出会ったばかりの頃にこう言っていた。
「ここで強くなって皆を見返したい。ここにいても速くなれると証明したい」
色んな人から進路の事を言われたと思う。
去年のインターハイの会場で、新藤は色んな大人から声を掛けられていた。その人達が何者かは分からないけど、監督っぽい人や、記者みたいな人もいた。中には腕を組んで偉そうに話す人もいた。多分、ああいう人達がとやかく言ってくるんだと思う。
新藤は走るのが大好きだ。一位になるのも好きだ。速くなりたいと常に思っている。
でも速くなったら色んなものがついてくる。周りの期待、結果へのプレッシャー、ライバルの台頭、自分自身の成長、とたくさんある。怪我をしてから今の新藤はそれに取り憑かれている。
それを振り払うには一位になるしかない。でも一位になったら今度は次の試合へのプレッシャーがくる。終わらない。無限ループだ。
それを考えると一流スポーツ選手の精神は逞し過ぎると思う。結果を求め続けられる世界で、途轍もないプレッシャーと向き合って、ずっと付き合っていくんだから。
僕は思う。そのプレッシャーに向き合うには、まず自信が必要だと。
失敗した経験があるからこそ、僕は自信を持って言える。
その自信をつける為には確かな実力が必要で、その実力をつけるには練習しかない。
でもやり過ぎは良くないと言う。
だからって休んでいても、その間に練習ができたんじゃないかって思う自分がいる。
どっちが正しいか分からないんなら、今までやってきた方法でやるしかない。
だから新藤は練習をする。自分が納得するまで。
でも、どこまでいったら新藤は納得するんだろう。
考えてみた。もし自分が新藤みたいに速かったらと。きっと出る試合は全部で一位になりたいと思う。
クラスで一番。
学校で一番。
島で一番。
県で一番。
次は全国・・・・・
僕だったらどこで納得するんだろう?多分、全国で一番になるほど速くなったら、絶対に次は世界ってなる。世界で一番獲ったら次は世界新ってなる。そこに辿り着くまでには一人しかいない。世界にどれだけ人がいるんだって話になる。
結局の所、新藤だけじゃなくて、僕もそうだし、速くなりたい人はずっと速さを求めている。
いつかの盛男さんが言っていた。
「新藤が走り過ぎだとしても本人がそれでいいんならいいと思う。本人が納得するまで走らせるしかない。間違っているかもしれないけど、もしかしたらあいつにとってはそれが良いのかもしれない。それはやってみないと分からない。練習する上で一番大事なのは、本人の意志だ。本人にとってベストなものを俺はやらせたい。だから俺の意志とは違ったとしても、本人がやりたいと言う事にとやかく言うつもりはない」
ここ最近、盛男さんに元気がなかった。心ここにあらずって感じが続いている。きっと新藤の事で悩んでいる。練習中、よく新藤と話していた。何を話しているのかは分からないけど、最初から最後まで深刻そうな顔のまま。ここ最近の二人はずっとあの調子だ。そんな二人を皆が心配して見る日が続いた。
そして、地区大会の日を迎えた。
僕もマネージャーとして帯同できた。盛男さんのお情けには感謝しかない。
飛行機はワイワイしてて和やかだったのに、やっぱり当日になるとピリッと皆の空気は変わった。競技を眺めるだけの僕でも、手首や足首を回したりと落ち着かなかった。
まず1500mの賢人の出番だった。
盛男さんによると、自己記録に近い記録で走れたら決勝進出できるとの事だった。
決勝進出の条件は、二組の上位五名と六位以下の記録の良い二名。
賢人がベストの状態ならいけるはずだ。
スタートすると賢人は集団の一番後ろを走った。ペースは緩やかだった。賢人は慎重だった。
「硬いな・・・」
盛男さんが嘆く通り、いつもの賢人の走りじゃない。
明らかに動きが硬い。緊張しているように見えた。
僕もよくそうなるから分かるけど、こんな時、身体の中は熱いのに対して外側は冷たい。いつまで経っても熱さが手足に伝わってこない。身体の外側と内側が別れているみたいな感覚になる。精神分離と言うのか、幽体離脱していると言うのか、本当にもう一人の自分が、自分の身体からフワフワ浮いているような感覚がする。
心が体から離れている。
それが一番近いと思う。
多分、今の賢人はその状態だ。今がまるで夢でも見ているみたいに、足がフワッフワとして走っている感覚がない。それでいて喉は熱くて息だけが苦しい。元に戻すには走りに集中するしかない。身体と対話して自分のいつもの感覚を取り戻すしかない。いつまでも周りに気を取られていたら、フワフワ浮いたもう一人の自分はいつまで経っても戻ってこない。
「あ、ペース上げた」
省吾の声が合図となった。
集団と賢人の距離がサーッと開いていった。
急激なペースアップに賢人は対応できなかった。賢人はまだ自分を取り戻せてなかった。歯を食いしばって懸命に腕を振っているけど、脚の動きは弱い。
間に合わなかった。
結局、賢人は最下位でゴールした。
「完全に呑まれていたな」
盛男さんは残念そうに言った。
走り終わった賢人は項垂れていた。
気持ちは痛いほど分かった。
そう。試合はいつもの走りができるほど単純じゃない。
走る前から襲ってくる途轍もない緊張、
速そうな選手達からの威圧、
こんな人達に勝てるのかという不安もあって、
さらには応援の歓声までもがプレッシャーに感じる時もある。
それを克服して自分の走りに集中できたらどんなに楽か。
それができないから試合は難しい。
スタンドに戻ってきた賢人は拍手で迎えられた。一礼した賢人の顔は悔しさで溢れていた。
賢人は応援団の端に座った。少しだけ皆から離れてトラックを眺めている。
トラックでは二組目の選手達が走っている。僕は賢人に近寄ると「お疲れ」とだけ言った。賢人は頷いただけで、トラックへの目線は変わらない。
この状態も自分がよくなるから分かる。
今の賢人は試合を思い返している。
今、走っている選手達と、さっきの自分を照らし合わせて、何が悪かったのか、どうしてたら良くなってたのか、とそんな事が頭の中を駆け回っているんだと思う。そんな時はそっとしておくのがいい。
5000mは大会一日目の最終種目だった。
サブトラックでアップ中の大志先輩や亮先輩や省吾の表情は賢人と同じで固い。でもそんな三人に新藤が近寄って何か話を始めた。
手を叩いて笑う新藤の顔が眩しかった。さすが新藤だなと思う。百戦錬磨だからそんな余裕が持てるのだろうか。何度も思っている事だけど、少しだけでいいから新藤になってみたい。新藤の今の精神状態が知りたい。どうやったらあんな状態に持っていけるんだろう。大事な局面で、あれだけリラックスできるのは絶対的な自信があるからなんだろうか。
スタートの時間になって、二つのスタートラインに選手達が並んだ。内側のラインに新藤と亮先輩がいて、外側に大志先輩と省吾がいる。
号砲が鳴ると、内側から一人の選手が飛び出した。
やっぱり新藤だった。
僕らが陣取るスタンドは大盛り上がりだった。
新藤はどんどん後ろを離していった。
新藤が来ると盛大な指笛が鳴り響いた。畑仕事で磨き上げてきたおじさん達の指笛は圧巻すぎる。近くにいるとキーンと耳鳴りさえする。グラウンドのどこまでもその高い音は響き渡った。
新藤は順調に走った。調子が良さそうだった。テンポよく身体が跳ねていく。
集団との差は見る見るうちに開いていった。新藤が通る度に大歓声と指笛がこだまし、集団が通っても大歓声と指笛がこだました。亮先輩と大志先輩と省吾も集団の中にいた。
半分を通過して、依然、新藤の独走状態だった。
記録は良かった。このままいけば新藤は自己記録を更新できる。
ペースは変わらない。後ろを全く気にせず走っている。圧巻の走りだった。
思わず溜息が出た。新藤の走る姿に僕は見惚れた。
少しだけ前に傾いた上半身は真っ直ぐに伸びている。腕に力は入っていない。上半身だけ見るとゆったりと走っているように見える。でも脚の動きはダイナミックでストライドは大きい。それでいて足の接地は軽やかでどんどん身体が前へ飛んでいく。全ての筋肉が柔軟に連動している。惚れ惚れする走りだった。
「やっぱりあいつは凄すぎるよ・・・」
賢人の声だった。
見ると賢人の目には涙があった。ガックリと項垂れて頭をグシャグシャと掻いては、涙で濡れた顔を上げて新藤に眼差しを送る。そして悔しそうに声を上げる。
「何であんなに綺麗に走れるんだよ。あいつおかしいよ・・・」
周りから見たら情緒不安定に見えるかもしれないけど、今の賢人の気持ちも僕には痛いほど分かる。不甲斐ない走りをしたからこそ、今の新藤の走りの凄さが改めてよく分かる。
新藤の走りは誰もが憧れる走りをしている。
完璧すぎる。
真似したい。
でも真似できない。
ずっと追い求めて練習してきたからこそ、僕達は痛感する。
あの走りをする事が、どれだけ難しくて果てしなく遠いものか。
だから賢人は悔しくて悲しくて絶望している。
僕達は新藤の走りに見惚れた。
これまでの新藤の走りでベストかもしれない。スピードは落ちるどころか速くなっている。かなりの好記録になりそうだ。
新藤は成長している。
速くなっている。
僕らの島でも速くなれる事を証明してくれている。
新藤が近づいてきた。表情は涼しい。まだまだ余力はありそうだ。
「いいぞ新藤!お前は凄い!」
賢人が立ち上がっていた。僕も立ち上がって声を上げた。周りの皆も立ち上がった。大歓声と拍手と指笛が共鳴し合って広いグラウンドに甲高く鳴り響く。
新藤が僕らを見た。笑って腕を高く掲げる。また大歓声が沸き起こった。
新藤がホームストレートに入った時だった──────。
突然、新藤が前につんのめった。
そして頭から豪快に転倒した。
会場の動きが止まった。音も止んだ。
新藤が身体を起こそうとした。
様子がおかしかった。
動きがひどく遅い。かろうじて上がったのは上半身だけだった。膝を突いたまま新藤は動こうとしない。
「まずいな」
盛男さんが駆け出していく。椿も慌てて盛男さんの後を追った。
会場がどよめいている。何が起こったのか僕はよく理解できてなかった。新藤は膝を突いたままだった。
「どうしたの?」
「早く走って」
「後ろが来るよ」
ざわめきが会場を満たしている。不穏な声が周りで渦巻いていた。
後方の集団が新藤を避けて走っていく。
亮先輩と大志先輩と省吾は新藤を心配そうに見て通り過ぎた。
盛男さんの姿が見えた。スタンドから大きな口を開けて新藤へ叫んでいた。新藤は膝を突いたまま進んでいた。恐る恐るといった感じで、慎重に少しずつハイハイの格好で進んでいる。
盛男さんが叫んでいる。その隣に椿もいた。賢人もいた。新藤に向かって叫んでいる。静かになった瞬間、やめろ、と盛男さんの大声が響いた。
「無理するな!」
盛男さんは必死に叫んでいる。それでも新藤は進もうとする。
係員がコースの内側にきた。新藤に何か話している。新藤は首を振った。立ち上がろうとしている。でも身体が上がらない。四つん這いのままだった。係の人は増えていく。担架まで持ってきた。
歓声が沸いた。
先頭がスパートを仕掛けた。それに五人の選手がついていく。進もうと必死に足掻く新藤の横を通り過ぎていく。一人が抜くと、次々と新藤の横を選手が過ぎていく。亮先輩がいって、遅れて大志先輩と省吾も新藤の横を通過していく。三人とも苦しそうだった。
新藤に目を戻すと、新藤は地面に顔を埋めていた。
係員がコースに入っていく。慎重に新藤を抱えて担架に乗せた。
新藤の顔が見えない。腕で顔を覆っていた。新藤を乗せた担架がコースを横切って建物の中に入っていく。
大きな歓声が上がった。
先頭がゴールしていた。次々と選手がゴールに駆け込んでいく。
亮先輩、大使先輩、省吾を探した。でも三人が見つからない。どんどん選手はゴールしていってるのに三人が見つからなかった。
そして、全員がゴールした。
誰もいなくなったゴールを僕は呆然と眺めていた。
つづき
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