20.夏休み
「よし、今日は泳ぎに行くか」
盛男さんを一斉に見た皆の顔がぱあっと晴れた。先輩達の雄叫びが蝉の声を押しのけて響き渡った。
今日はスピード練習の日。この炎天下の中で鬼のような練習メニューをするのかと思っていたから地獄から天国に上った気分だった。
もう夏休みも半分を過ぎていた。
インターハイから帰って来ると、夏休みの練習は格段に増えて内容も厳しくなっていった。
学習の森での走り込みは距離も増えてペースも速くなったし、スピード練習でもインターバルの本数は増えた。
その中で救いだったのが、練習は必ず夕方から始まっていた事だ。
だから今日が昼間の集合と聞いた時は地獄を覚悟していた。
さっきまで憎くてしょうがなかった太陽のギラギラも、今は手を広げて歓迎していた。
やっと夏休みらしい事ができる。
そう思うと心はウキウキした。
「椿もさ、今日は日焼けとか気にしないで水着で泳いだらいいよ」
浮かれたキャプテンが椿に言った。
上から、麦わら帽子、首にタオル、長袖、手袋、長ズボンの椿が、サングラス越しにキャプテンを睨みつけた。
「スケベ」
椿はキャプテンにいつも冷たい。
行き先は先浜ビーチだった。先浜ビーチは白い砂浜が数キロも続く島でも一番の観光ビーチだ。ビーチの近くには高級リゾートホテルもあって観光客も多い。でも砂浜が長いから場所を選ばずに思いっきり遊べる。
座席のない窮屈な荷台の中で30分ほど揺られていると、座席に座った先輩や椿の歓声でビーチにやっと着いたのが分かった。荷台に座る僕からはシートの裏しか見えない。
車が停まると、先輩達は我先にと急いで降りていった。
「海だあああ!」
先輩達の歓喜に沸く声が開いたドアの向こうでする。
急いでシートを跨いで車から降りると、強い潮の薫りが鼻に広がった。
海だ。
目の前に海が広がっていた。
太陽が辺りを眩しく照らしている。真っ白な雲も、青い空も、エメラルドグリーンの海も、白い砂浜も、全てがキラキラと輝いている。
車は漁港の岸壁に停まっていた。
岸壁の突端に子供達が並んでいる。その子供達が一斉に飛んでいくと、岸壁の下から大きな水飛沫が勢いよく飛び跳ねた。光を弾いた水飛沫が散らばって岸壁を濡らしていった。
心地いい潮風に揺られながら僕は思いっきり伸びをした。
「よっしゃ。俺が一番乗り」
キャプテンが服を脱いだ時だった。
「待て!まだ海は駄目だ」
その盛男さんの言葉に全員が首を傾げた。
「その前に走るに決まってるだろ」
そう言って指さした盛男さんを見て、全員の表情が曇った。
盛男さんの指した先には、眩しいぐらいに輝く白い砂浜がずっと先まで続いている。
「砂浜で走るのもいい気分転換になるよ」
誰も盛男さんの声に反応しなかった。
まず砂浜でダッシュをした。砂浜は全然前に進まなかった。しかも、前の人が蹴り上げた砂が飛んでくる。すぐに疲れて脚はパンパンに張った。
汗でぐっしょりだった。暑すぎた。白い砂浜からの強烈な照り返しが暑さを倍増させる。砂浜が熱気で揺れているように見えた。ふんだんな紫外線のシャワーが火照った体をジリジリと焦がしていく。こんな炎天下なのに、しかもすぐ目の前には海があるというのに、入れない。地獄だ。こんな練習をさせる盛男さんが憎かったけど、当の本人は先陣を切って皆の前を走っている。憎しみをぶつける相手がいないので、しょうがなく僕は上空の太陽を睨み上げる。
「よし、次でラストにしよう」
新藤だけが返事をした。僕は息切れで返事をした。
スタート地点にジョグで向かっていると、一人が列からはみ出した。
「ヤバいよ。フラフラするよ」
キャプテンだった。誰も反応しなかった。皆、自分の事で精一杯だった。キャプテンは波打ち際に引き寄せられていく。
「うわあ」
あまりにもわざとらしい声だった。バシャン、と音を立ててキャプテンは波打ち際で転んだ。両手、両足を広げてゴロゴロ転がっている。
「・・・良豪、待たないからな」
先頭で戻る盛男さんが冷ややかに言った。さすがの盛男さんもめんどくさそうだった。新藤も冷ややかにキャプテンを見ている。そんな皆の反応を見たキャプテンは、すぐに立ち上がって悲しそうな顔をして列に戻ってきた。
「最後だぞ。一位を獲る気でな」
盛男さんの掛け声で一斉に皆が飛び出す。
新藤と盛男さんが抜け出す。視界の端で後ろに下がっていく人影が見えた。
「ずぶ濡れだから重いよお」
キャプテンの声を無視して僕は走った。
地獄のダッシュが終わって、皆の息が落ち着いてくると、盛男さんは言った。
「締めに競争をしよう。ビーチを往復するか」
皆の顔が青ざめた。
ビーチは全長が7㎞以上あると聞いている。それをキャプテンが指摘すると、リゾートホテルの前で折り返す事になった。それでも僕らのいる場所からリゾートホテルは見えない。ビーチは三日月みたいに湾曲していて、カーブの先は森の木に隠れて見えない。ちょうどカーブの所に海の家がある。そこまで500mはありそうだ。海の家からホテルはもっとあったような気がする。
「なるべく海から離れて走れよ。波打ち際は人が多くて迷惑になるし、濡れた砂は走りやすいからな」
盛男さんが忠告を入れる。砂浜にはいつもより人がいた。岸壁には観光バスも停まっている。波打ち際で遊ぶはしゃぐ人達の顔が眩しい。
盛男さんの掛け声で僕らは砂浜を走り始めた。
盛男さんは走ってない。椿がナンパされない為に残る、との事だった。僕が代わりに残りたかった。
砂浜で遊ぶ人達を避けながら走った。
皆、楽しそうだった。ビキニ姿のお姉さん達を見つつ僕らは走った。
でも、そんな余裕があったのは最初だけだった。
砂浜のランニングは過酷だった。身体が物凄く重く感じた。砂に足を取られてうまく蹴り上げられない。蹴り上げてもサラサラな砂が力を奪っていく。
そんな中でもやっぱり新藤は速かった。どんどん先をいく。
ビーチの人達は僕らを物珍しそうに見ていた。恥ずかしかったけど前を見て走った。EDMが鳴りっぱなしの海の家を過ぎると、先にリゾートホテルが見えた。確か10階建ての大きな建物のはず。それが、ここからだと手のひらに収まるぐらい小さかった。ビーチにいる人達はゴマ粒ぐらいの小さな小さな点だった。まだまだ先は長かった。
リゾートホテルに近づくにつれて人はどんどん多くなった。その人達も僕らを物珍しそうに見ていた。声援を向ける人達もいた。見せしめみたいだった。
先頭の新藤は監視のやぐらの所で折り返していた。やぐらの周りには色とりどりの水着の人達がいた。そんな人達の視線を浴びて、僕は最後尾でやっとやぐらに到達した。もう息は上がって、脚は鉛になっている。消耗がひどかった。
もう新藤がどこを走っているのか見えなかった。かろうじて賢人は見えた。さらに前の先輩達はもう米粒になっている。まだ近かった省吾の背中を目指して走った。でも省吾の背中も離れていく。追う気力は湧かなかった。とにかく無事に戻る事を目標に走った。
やっとスタート地点に戻った時には、脚はぱんぱんに張って感覚がなかった。
その場に座り込んだ。寄せる波が乳酸で硬まった脚をじんわりと冷やした。
「ふおおおお!」
甲高い叫び声が聞こえた。見ると、岸壁で賢人が叫びながら勢いよく走っていた。
賢人は見事な前方宙返りで海に飛び込んだ。着水に失敗して大きな水飛沫が上がった。
先輩達の大きな笑い声が響き渡った。岸壁の階段に座った椿が手を叩いて笑っている。岸壁にいる半裸の新藤の割れた6つの腹筋が太陽の光を浴びていた。
「哲哉。早くこっち来いよ。気持ち良いよ」
新藤のその誘いに応える気力は湧かない。とりあえず岸壁に移動したものの、盛男さんのワゴンの陰から出られなかった。まだ回復してない省吾も僕の隣に座った。それを見た椿が冷たい麦茶が入ったボトルを差し出してきた。
「お疲れさま」
冷たい麦茶がうますぎる。どんどん身体に入っていく。頭から浴びたかった。
「おい、こんな所にいないで早く入れよ」
岸壁に上がった賢人が言ってきた。今はいい、と僕は投げ遣りに返事した。
麦茶を飲んで一息吐いた。空はカンカンに晴れていた。気持ちいいくらいに、はっきりとした青い空と白い雲だった。
「捕まえたっ」
両腕と両足が掴まれた。腕には新藤、足には賢人がいた。隣では省吾が亮先輩と大志先輩に同じように捕まっている。
「よおし、おやりなさい」
キャプテンの指示で運ばれていく。椿が僕と省吾の手からボトルを奪った。
「ちょっと待って。まだ心の準備が・・・」
それでも二人は離してくれない。新藤に至っては無邪気な子供のように楽しそうに笑っている。溺れるかも、と言っても全く聞く耳を持ってくれない。岸壁の突端に辿り着くと、二人は息を合わせて僕の身体を右に左に振り始めた。
「せーえーのおっ」
悪魔のように笑う二人から落下カウントダウンの声が降りかかってくる。
「はいっ!」
二人の手が離れて身体がフワッと宙に浮いた。視界には透き通った海が一面に広がっていた。
あ。
と思った時にはすぐ目の前に海面が迫っていた。目を閉じた瞬間、激しい衝撃が全身を叩きつけた。
強烈な痛みがきたのは一瞬だった。すぐにひんやりとした海水が火照った身体を痛みも丸ごと包み込んだ。
ごぼごぼごぼ、と心地良い音と共に気泡が身体をくすぐってくる。海の浮力が、芯まで強張った身体を解していく。
気持ち良すぎた。そのまま沈んでいきたい気持ちになった。
気持ちのいい海中に揺られていると、さっきの新藤の様子が浮かんできた。
楽しそうにはしゃいでいた新藤。あの様子を見れただけで嬉しくなってホッとしている自分がいた。
最近の新藤は、ちょっと近寄り難い雰囲気があった。
インターハイから戻った新藤は、気を張っている、と言うか、鬼気迫る、と言うのか、よくそうなる時があった。新藤は口に出してないけど、多分、予選落ちという結果と、同学年の選手の活躍がかなり響いたんだと思う。
インターハイに出場した新藤とキャプテンは健闘虚しく予選落ちの残念な結果に終わった。
予選一組目に登場した新藤は9位。
先頭集団に終盤までついていけたものの、ラスト2周の留学生が仕掛けたスパートに置いていかれた。粘りは見せたけど、先頭集団にどんどん離されていった。記録はいつもより良くなかった。新藤は悔しそうだった。
二組目のキャプテンは15位。
キャプテンも新藤と同じく先頭集団の中にいたけど、中間あたりで先頭集団から零れてどんどん離されていった。終盤になんとか這い上がって最下位は免れたけど、トップとの差は一分近くあった。危うく周回遅れになりそうだった。
あまりにも高い全国の壁に僕らは絶望するしかなかった。応援していた部員全員が自信を失ったのは間違いなかった。観なければ良かったな、とそんな思いさえもした。
化け物だと思っていた二人より化け物があそこにはゴロゴロいた。特にトップを走った留学生のスピードは次元が違った。勝てるわけないと思った。
でも、その留学生に食い下がる選手がいた。
その選手は僕らと同じ一年生だった。
兵藤快。
新藤が蹴ったと噂される有名校の一年生。
新藤と同じで中学から有名な選手だった。それでも新藤には一度も勝てていなかったみたいだ。
それが高校生になっていきなり立場は逆転した。
兵藤は決勝に上がって、上位争いを演じるほど活躍して脚光を浴びた。
走り終わった後、兵藤は取材の人達に囲まれていた。その兵藤をずっと見つめていた新藤の横顔は今でも忘れられない──────。
ザブン、と音がした。
そこでハッとする。
そういえば海の中だった。それを思い出すと急に息が苦しくなって、僕は慌てて海面へ向かった。
「いやっほおおお!」
顔を出すと、すぐ上で声がした。顔を拭うと、またすぐに激しい水飛沫が飛んでくる。次々と上から叫ぶ人が降ってきた。その度に大きな水飛沫が襲ってきた。
僕らは思いっきり遊んだ。岸壁から海へダイブしたり、皆で協力して身体を投げ飛ばしたりと、さっきまでの疲労が嘘のようだった。
「新藤孝樹、いきまーす!」
手を挙げていた新藤が勢いよく岸壁から飛んだ。
見事な前方宙返りだった。すぐに海から出てくると、今度は岸壁を物凄い速さで走って頭から海へと飛び込んでいった。
新藤の弾ける笑顔が眩しい。
こんなに元気な新藤を見るのは久々な気がした。
ここ最近の新藤はたまに思い詰めた顔をする時があった。そんな新藤を見ていると、つい心配してしまう。ネットのあの投稿を見てしまったんじゃないかと。
インターハイの後、新藤の走りが話題に上がっていた。
遅くなった。
早くもピーク過ぎた。
このまま消える。
ちゃんと練習してるの?
まともな指導者はいないんだろうな。
そんな心ない言葉が並んでいた。それで決勝に上がった兵藤と比べられたりしていた。
やっぱり間違った選択だった。
その言葉が僕としては一番心に突き刺さった。僕らが間違っている人達とでも言いたいのだろうか。腹が立ったし、かなり傷ついたけど、それよりも速すぎる新藤を不憫に思った。凄い事をしているはずなのにどうしてそんな事を言われないといけないんだろうと。
数え切れないぐらいたくさんいる中の、ほんの一握りの選手しか出られない大会に、しかも一年生で出場する。それで成績が良くなかったら非難される。しかも関係している人までもが非難の的にされてしまう。
新藤を指導している盛男さんも、一緒に練習する僕らも、新藤が練習するこの島も・・・・・。
「盛男さんも入りなよ!」
新藤が声を上げた。
待ってました、と言わんばかりに盛男さんがすくっと立ち上がった。
脱いだTシャツから現れたのは彫刻のような肉体だった。肩、胸、腹、見える所がボコボコと盛り上がっている。皆が口を開けて盛男さんの肉体美を眺めていた。
その盛男さんが岸壁の突端で後ろ向きに立った。頭から爪先まで綺麗に整った立ち姿を見せると、腕を何度か振って思いっきり踏み込んだ。
腕を高く掲げて背中を逸らした瞬間、ずるっ、と音が聞こえた。
「あっ!」
ぬめった突端に力を殺された盛男さんは、空中でブリッジした状態でフリーズした。
爆笑の渦と共に派手な水飛沫が上がった。
皆が手を叩いて笑っている。
こうやって皆が楽しそうにしている姿も凄く久々な気がした。
インターハイの後、意気消沈していた駅伝部に、さらに追い打ちをかける事がつい最近あった。
10月にある秋の国体。
そのメンバーに新藤とキャプテンが落選してしまった。
この二人は絶対に選ばれると思っていただけに、僕らはかなり落胆した。
国体はインターハイと同じように全国大会の扱いだった。
だけど、インターハイとちょっと違うのが、高校生の『少年部門』と、大学生と社会人を含んだ『成年部門』がある事だ。
要は、社会人と高校生を含めた、県の陸上チームとして全国大会に出場するわけだ。
ただ、卑しいのがこのチーム登録のメンバー数が限られている事だ。
トラック競技とフィールド競技、さらに『少年』と『成年』を合わせるから、設定された人数だとかなりの種目の選手が振るい落とされる事になる。
その中に新藤とキャプテンが入っていた。
インターハイに出場した選手がメンバーに選ばれなかったのは普通なら有り得ない事らしい。
何でも今年の少年選手は豊作みたいで、短距離やフィールドを中心にしたメンバーが選ばれたそうだ。この人選に盛男さんはかなり不満だったみたいで、メンバー発表の後はずっと不機嫌だったし、新藤もキャプテンも沈みがちだし、僕らもいつも元気な二人が落ち込んでる姿を心配するしで、ここ最近の部の雰囲気はずっと良くなかった。
そんな状況だったからこそ、今の皆の弾けた笑顔が僕にはとても嬉しい──────。
「哲哉!バク宙やって!」
海から新藤が言ってきた。
ギクッと身体が固まる。
そんな大技やったことないし、それにさっきの盛男さんの失敗を見てる・・・。やりたいわけがなかった。
でも今の新藤や皆の気持ちに水を差したくない。
迷ったけど、僕は決心した。
突端に立って海に背を向ける。
「おおっ!」
目を閉じて呼吸を整える。
さっきの新藤の笑顔が浮かんでくる。あの笑顔がレース後にも見られるといいな、と思い、そして願った。新藤の努力が報われますように、と。
僕は思いっきり腕を振って後ろに飛んだ。
空が見えた。すぐに海が広がった。見上げる皆の姿が見えると、海面がすぐ目の前にぐんっと迫った。
あ。
顔に痛烈な衝撃が走った。
海の中からでも皆の笑い声が聞こえた。
つづき
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