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8.アスファルトはだめー


 今日の練習場所は市民球場内の多目的広場だった。

 昨日、シバと一緒に走った芝生の広場だ。サッカーの大会でよく使われているけど、平日は全く利用者がいなくて、ほとんどが天日干しされているような場所だった。駅伝部の練習場所は大体がこの広場みたいだ。

 広場には駅伝部しかいなかった。

「皆ちゃんと来てるな」

 盛男さんは嬉しそうだった。

「身体の方は大丈夫か?」と僕らに訊いてくると、賢人が「凄い筋肉痛です」と言ったので僕も頷いて見せた。

「そりゃそうだ。いきなり一万はきついよな」と盛男さんは笑顔を見せた。

「先輩達はもう知っていると思うけど、新入生の為に聞いてな」

 盛男さんはが話したのはこれからの大まかな予定だった。

 まず、四月から十月までは陸上シーズン。

 僕ら駅伝部は陸上競技の『中長距離』を走る事になる。

 五月の島の総体、
 六月の県総体、
 七月の南地区大会、
 八月の全国総体(インターハイ)、
 十月の国体(国民体育大会)、

 で陸上シーズンは終わる。

 そして十一月には全国高校駅伝大会の切符を賭けた県予選がある。

 県で上位の高校は地区大会にも出場して、そして県でトップの高校は十二月の都大路で走る事になる。

 こうして並べてみると、大会のスパンは一ヶ月と、かなりハードだ。まあ、あくまでトップ選手の場合だけど。

 さらに一月には全国男子駅伝大会も控えている。トップ選手は忙しいんだな、とつくづく思う。

「・・・言っておくが、ここにいる全員が大会に出られるわけじゃないからな。ここにいる皆は仲間だけど、ライバルでもある。ただ走るだけじゃ速くならない。自分の身体をどう動かしたら速くなるのか、速くなる為に自分は何をしたらいいのか。これを考えながら練習して欲しい。口を酸っぱくして言うけど、自分の身体の事を一番知っているのは自分だけだ。ただ他人の話を聞いて、ただ練習をするだけじゃ伸びないからな。その練習の中でヒントを見つけ出して、己の身体で答えを導き出していく。考えて答えを見つける選手はどんどん伸びていくし、見つけられない選手はどんどん置いていかれるぞ。これからの少しの積み重ね次第で皆の陸上人生は大きく変わるよ。今日からの練習、心して取り組んでいこう」


 重く響いた。


 まず練習で自分の身体を知って、力を伸ばしていく。

 速くならなければ大会には出られない。

 その経験の差が、さらに力の差となる。

 そうやってトップ選手はどんどん駆け上がって、そうでない選手は置いていかれていく。

 そのトップに食らいついていくには日々の練習の積み重ね。

 この中でダントツに遅い僕が皆より力を付けるには、練習しかない。少しでも皆より努力をしつつ、自分の身体を良く理解して、より効率の良い練習をしないと皆に追いついていけるはずがない。

「じゃあ、今日の練習メニューは・・・」

 ごくり、と喉が鳴った。


 いよいよだ。


 盛男さんの口が動く。

「一時間のフリーランニングで、後はストレッチ。以上。時間になったら戻るから、キャプテンの言う事をちゃんと聞くように」

 ずるっと足が滑りそうだった。これだけ?と声が出そうだった。

 盛男さんは広場を後にした。冗談じゃないみたいだ。エンジン音は遠くに消え去っていった。

「え?本当にこれで終わりですか?」

 やっと新藤が口を開いた。「そうだよ」と肩を回すキャプテンが当然のように言った。

「昨日は本気で走ったから今日は軽め。うちの練習法はこんなだよ」

 新藤は唖然としていた。「拍子抜けしたか?」とキャプテンが新藤の顔を覗き込んだ。

「最初は俺もお前と同じだったよ。亮も、大志もね。こんなんで速くなるのかよって最初は疑ったよ。ただあの人がサボりたいからじゃないの、て思ったりしたんだけど、それは絶対に違うからね。まあ騙されたと思ってやってみてよ」

 キャプテンは新藤の肩を軽く叩くとおもむろにシューズを脱ぎ始めた。亮先輩も大志先輩も裸足になると三人は走り始めた。

「好きなペースで走って。無理は禁物だからな」

 顔だけ後ろを向いてキャプテンが言った。

 僕らは戸惑いながらも裸足になってから走り始めた。

 脚が重い。むず痒い筋肉痛が笑い掛けてきた。でも足裏は気持ちいい。

 そういえば裸足になって走るのは久々だった。

 小さい頃はよく裸足になった。足が速くなったような気がして何度もダッシュしていた。

 後ろで気配がしなかったので振り返ると、新藤は立ち尽くしたままだった。表情は渋くて、納得してないみたいだった。

 でも、少し経って走り始めた新藤のスピードはゆったりとしていた。足にもシューズはなかった。

 一時間経って、次はストレッチになった。

 全員が輪になって座り始めた。特にメニューは決まってなかった。先輩達がおもむろに格好の違うストレッチを始めたので、僕は開脚ストレッチを始めた。

「哲哉、おまえ硬すぎだろ」

 全く脚を開けない僕を見たキャプテンが笑いながら言った。「いや、筋肉痛で調子が悪いんです」と言ったけど、普段もこんな感じで直角に開いたら良い方だった。隣の亮先輩が寄ってくると、僕の脚を掴んで開かせようとした。僕は痛みに悲鳴を上げた。

「硬いくせにストレッチしないから筋肉痛になるんだよ」

 亮先輩が手を離すと、僕は真っ先に股関節をさすった。隣の賢人が笑っている。それを見た亮先輩が賢人にも同じ事をした。

 賢人は僕より開かなかった。

 賢人の女みたいな甲高い悲鳴が広場にこだました。

「お前らはまずは柔軟だな。運動をする上で大事なのは関節の使い方だからな。ほら、あいつを見ろ」

 亮先輩が指した方向を見ると、新藤が両脚を一直線に開脚していた。僕らの驚きの視線に気づくと照れくさそうに目を逸らした。お腹は地面に着いていた。こんなに柔らかい人を見たのは初めてだった。

「あれは難しいと思うけどさ、柔軟はやってて損はないよ」

 大志先輩だった。

「亮が言ったと思うけど、関節は運動をする上で一番大事な部位なんだ。関節の使い方次第で動きって激変するからね。筋肉を生かすのも殺すのも関節次第って考えた方がいいよ。例えば股の関節が軟らかいとね、脚を開いたままでも関節が力強く機能するから、蹴る力も強くなってストライドもぐんと伸びる。俺も硬かったんだけど、軟らかくなってこの伸びに気づいたんだ。ストレッチってないがしろにされがちだけど、本当に重要で大事なトレーニングなんだよ」

 ここで大志先輩は賢人を呼んだ。

 新藤の傍に来させると、二人を使って説明を始めた。並んだ二人に片脚を前に出させると、大志先輩は二人に限界まで伸ばすように言った。

 全然違った。

 二人の脚の開きの差は靴二足分はある。

 それで脚を戻させると、新藤はすぐに脚を閉じたのに、賢人は辛そうな顔をして時間をかけて戻した。戻した後は顔を歪めて股をさすっている。

「ほら、一歩だけでもこんなに違うでしょ」

 目から鱗だった。

 あれを走る一歩と考えたら、もうその時点で二人に大きな差があるのが分かった。だから新藤のストライドはあんなに広くて力強いわけだ。

 少し考えると気づく事だった。でも教えてもらってやっと気づいた。指摘されて教えてもらわないと気づかない事って本当に多い。

「どうやったら軟らかくなるんですか?」

 まだ痛そうな賢人が大志先輩に訊いた。

「練習後とか、お風呂上がりとか、身体が温まっている時が効果的だよ。あと気をつけて欲しいのは、無理にやろうとしないこと。痛めちゃうからね。それと、根を詰めるとプレッシャーになって続かないからね。大事なのは続けていくこと。日々の積み重ねだからね。リラックスした気持ちでやるんだよ。テレビ見ながらとか、スマホをいじりながらとか、そんな感じでやるといいと思う。そしたらその内に習慣化されていってやらないと落ち着かなくなる身体になると思うよ。そのレベルになったら、もう脚はかなり開いてると思う」

 新藤が何度も頷いていた。

 うん。良い事を聞いた。早速、今日からストレッチをやろう。

 駐車場の方からトラックのエンジン音が聞こえた。少し経って、首にタオルを巻いた盛男さんが現れた。「そのままでいいから」と言ってストレッチ中の皆の前で腰を下ろした。

「一年生、今日のメニューはどうだった?」

 誰も返事しなかった。盛男さんは僕らの顔を見ていく。

「本当に今日はこれで終わりなんですか?」

 新藤だった。仏頂面だった。

「うん。終わりだよ。どう思う?」

 盛男さんの顔は笑みを含んでいた。

「足りないです。もっと走った方がいいと思います」

 新藤の強い口調に周りの空気が張り詰めた。でも、その新藤とは裏腹に盛男さんの顔は柔らかい。「どれだけ足りない?」と盛男さんが新藤に訊くと「全然足りません」と新藤は強く言った。

「そうか、全然足りないか」

 盛男さんは笑っていた。

「孝樹、お前は怪我をしたいのか?」

 新藤はすぐに首を振った。「そうだよな。当たり前だよな」と盛男さんはまた笑った。

「確かにね、今までの練習でお前は速くなってきたかもしれない。でも、ここまでは運が良かったと思った方がいい。このままだと間違いなく怪我をするぞ」
「でも、長距離は走れば走るほど強くなるものだと思います」
「確かに走れば筋肉も付くし心肺も強くなる。でもな、強くなりたいからと言って身体を虐め続けたら元も子もないぞ。孝樹が言っている事はな、痛みに強くなる為に殴られ続けると言っているようなものだぞ。ずっと殴られてみろ。死んでしまうだろ」


 それとこれは違うような気がした。


「殴る事と走る事は違います」

 やっぱり新藤は言った。でも盛男さんは「いや、近い事は近い」と折れない。

「走るってのはな、足裏を地面に叩きつけてから始まる行為なんだ。足は何度も地面に殴打されている。この衝撃が膝にも股にも来る。それを考えたら脚はダメージを負っていると思わないか?」

 うん、その通りだ。

「特に長距離はな、ながあい時間、地面に殴打される事になる。元気な内はまだ筋肉がしっかり関節を守ってくれるけどな、疲れてきたら弱った筋肉は関節を守れなくなる。そこに地面からの衝撃が、どんっ、と襲ってくる。ダメージは相当なものだろ?これがアスファルトの地面だったら、もうダメージはとんでもないぞ。だから皆にはこれだけはやって欲しくない。無理な練習と、硬い地面での練習。この二つは絶対にして欲しくない。アスファルトでヘロヘロに走り込むのは自殺行為だからな」

 盛男さんの話を聞いているとだんだん恐くなってきた。走る事ってとても危ない行為なんだと思ってしまう。

 ここで盛男さんは前に強豪校でコーチングの勉強をしてた時の話をした。その高校は何度も日本一になった有名校だった。練習前、盛男さんはこんな想像をしていた。

 倒れる寸前まで選手は走り込んで、指導する先生は激を飛ばす。そんな地獄のような練習を朝早くから暗くなるまでする。

 そんな想像をしていた。練習というよりは訓練。軍隊のような集団だろうと。

 でも、ふたを開けてみたら全く違っていた。

 練習時間は一日に多くても2時間程度だった。へとへとになる練習は、週二、三日程度で、間には必ず軽い練習メニューの日を挟んだ。

 そして、アスファルトの道路では絶対に走らせなかった。

 そこの監督との話は気づかされる事ばかりだったと盛男さんは言った。

 毎日ひたすら走って自分を追い込む。そしたら、その分だけ心肺機能は強くなって、走る為の筋肉も付く。毎日の努力と忍耐によって実を結ぶのが長距離。

 僕はそう思っていた。

 でも、それは間違った認識だと盛男さんは言った。根性論や精神論が美化される昔の風潮が招いた誤解だと。

「もちろん練習を積んでいったら速くなる。それは確かだよ。でもな、さっきも言ったけど、辛い練習を毎日繰り返したら身体に相当な負担が掛かるし、何より心が逃げ出していくんだよ。この心が逃げ始めると、身体もつられて弱くなっていく。悪循環だな。嫌々でやる事が最高に無意味で無駄な事だと俺は思う。勉強でもそうだよな。だるいからボーっとして、とりあえずノートに写す。それじゃ何も覚えるわけがないよな。大事なのは真剣に取り組む姿勢。熱中する事だ。じゃあ、熱中するにはどうしたらいいか・・・楽しむ事だな。それで皆が楽しめるように色々と考えて試行錯誤しながら実践してきた。最初はひどかったけど、今は形になって、ここまで皆が怪我なく速くなってくれてる。俺がここのコーチを任されてから三年経つけど、今のやり方は間違っていないと思う。最初は疑問に思うかもしれない。特に、孝樹みたいに速い人はな。今までしてきた事で速くなったのに、それを否定されたら誰だって気を咎める。だから孝樹の気持ちはよく分かる」

 新藤は相変わらず渋い顔だった。盛男さんから目を離さない。

「だけど、ここは俺を信用して欲しい。ここにいる先輩達も。練習は大事だけど、お前らは高校生だ。今は君ら人間としての力を作る大事な時期だ。そんな貴重な時間を、怪我で台無しにはして欲しくない。ずっと元気な身体で、駅伝も、勉強も、青春も熱中して充実した高校生活を送って成長していって欲しいと俺は願っている。勉強も大事だし、友達も大事だし、彼女は、もうかなり大事だな・・・彼女いる人は?」

 手を上げたのは大志先輩だけだった。

「良豪、お前はまだ好きな人できないのか?」と盛男さんがキャプテンを茶化すと「大学で見つけるし」とキャプテンは口を尖らせた。盛男さんは笑いながらキャプテンの肩に手を置いた。

「この良豪は受験も控えているから勉強もしないといけないな。だから放課後の練習は暗くなる前には絶対に終わらせる。今日みたいなフリーランの日はもっと早く終わる。正直、物足りないと思うかもしれない。特に孝樹はな。それだったら自分で調整しなさい。練習が不満だったら納得するまで自主練をしたらいい。でも、俺は今の練習方法でも絶対に強くなる自信はある。先輩達も実感している。それでも納得できないんなら走ってもいい。でもな、孝樹。絶対に怪我だけはするなよ。今の部員は七人しかいない。一人でも欠けると駅伝はできない。最悪、他の部活から助っ人を呼ぶ事になるし、お前が抜けると相当な痛手になる。せっかく七人揃ったんだから駅伝部だけで出場したいんだよ」

 去年の大会はサッカー部から二人を助っ人に呼んだらしい。しかも、チームを抜けても問題ない一年生。それで県で四位。メンバーが揃ってなくてこの成績なら、今年はもっと良い成績になるはず。

 相変わらず新藤は不機嫌そうだった。そんな新藤を見て盛男さんは話し続けた。

「もし、つまらないなと思ったら遠慮なく言っていいからな。ここのモットーは駅伝を熱中する事だ。熱中しなかったら心がだらけて、ふざけて走るようになる。嫌々でやっている人を見ていると気分悪いよな。一生懸命やっている人のやる気にも水を差すようになる。せっかく楽しい気持ちでいるのに乗り気じゃない人がいたらつまらないもんな。身の入らない練習なんてやらない方が身の為だ。だからそういう事態になったらすぐに俺に言って欲しい。そんな人はいない方が、部の為にも、本人の為にもなる」

 さっきまでのほほんとした口調だったのに、ここだけは強い口調だった。

「わかったか?」

 すぐに大きな七つの返事が飛んだ。

「よし、じゃあ明日も同じ時間だからな。場所は先輩達から聞くように。練習時間は少ないから遅刻して皆に迷惑かけるなよ。テキパキ動くようにね」

 はい、と全員が声を上げた。

「よし、それじゃあ今日は終わり。良豪、号令」

 キャプテンが立ち上がると皆がそれに倣って立ち上がった。

「ありがとうございました」

 キャプテンが一礼する。

「ありがとうございました」

 後から僕達も一礼する。

「こちらこそありがとうございました。じゃあキーパーを荷台に乗っけたら、後は解散」

 盛男さんは駐車場へ向かった。

 キャプテンと亮先輩がキーパーを軽トラの荷台に乗せると、ピッピー、とクラクションが鳴り響いて軽トラは帰っていった。

 それを見届けると省吾はすぐに身支度を始めた。

 省吾の家は遠い。しかも自転車で来ている。坂道も多いから一時間近く掛かるらしい。僕の省吾に向ける眼差しは、哀れな人に向けたものと同じだ。賢人や先輩達も自転車だけど、市内に住んでいるので省吾ほど時間は掛からない。僕に至っては歩いてきている。陸上競技場へ向かう長い坂道を上ったら、もう五分もない。

「そういえば新藤は西富に住んでるんだよね?」

 賢人の質問に「そうだよ」とリュックを背負った新藤は言った。西富の集落は省吾の集落よりは遠くないと思うけど、それでもここから10㎞近くはあるはずだ。

「そういえばここに走って来てたよね?迎えが来るの?」

 いや、と言った新藤がリュックのベルトを留めた。

「走って帰るよ。軽くだけど」

 しんと一瞬だけ静かになった。

「ええ?じゃあ学校の時は?」

 亮先輩が訊いた。新藤がニッコリ笑う。

「もちろん走って来てます」

 とても爽やかな笑顔だった。

「じゃあ、お疲れ様です」

 新藤が手を振りながら球場の方へと走っていく。

 速かった。僕の本気より絶対に速い。

 静かだった。

 皆が小さくなっていく新藤の背中を見ていた。


           つづき

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https://note.com/takigawasei/n/n9f9ac068733b


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