代書筆10 日本時代の住まいと交通
昔の住まい
かつての住まいは、どこも簡単で粗末だった。土をたくさん使って造り、とにかく雨風をしのげればいいというものだった。床にはレンガや石ではなく、粘土質の土をたたき敷く。これだと次第に硬くなめらかになり、みな裸足だから何の不便もなかった。
私の実家には家が2軒あった。1軒は土埆造り(角型に突き固めた土を積む)で、もう1軒は竹籠造り(竹で骨組みを作り、その上に土か漆喰を塗る)である。間取りは同じで、入口正面に居間、その両側に2部屋ずつあり、家の後ろが厨房になっていた。どちらも地元の大工に建ててもらった。昔は自分で材料を用意し、大工には工事費を日数分で払う。わが家の場合、土埆には作男たちが住んだ。当時の庶民の住まいは、だいたい土埆造りであった。これは冬暖かく、夏は涼しいので、住み心地は快適だった。余裕のある者は寝台を使ったが、たいていは竹の台にワラを敷いて寝た。中には一台に家族全員で寝る家もあった。
私たち夫婦と両親、未婚の兄弟を合わせて十数人は、竹籠の家に同居していた。のちに私たち夫婦だけ玉記商行へ引っ越した。代書屋になって金が貯まるようになったので、自分の家を買うようになった。戦後、息子に孫外科を建てると、息子一家とそこに住んだ。
◎土埆造りは通風が悪く、中は薄暗いけれど、断熱効果が高いことが利点です。なお清代の台湾では木材が一番高価で、木材をふんだんに使えるのは、かなりの富豪の家だけでした。
交通事情
日本時代、台湾人の移動手段は主に「歩き」であった。善化は台湾鉄道、製糖鉄道などがあって便利だったが、台南に行ったことも汽車に乗ったことすらもなく一生を終える人もいた。ただ私は何でも試す方だから、いろいろ乗った。
台湾鉄道の汽車は「十分車」と呼ばれ、最も大衆的な交通手段だった。車両は等級ごとに分かれており、台南まで2等は4.5角で、3等より3角高い。20枚買うと2割引になった。代書屋時代、私は毎週土曜午後から遊びに出かけていたのだが、この回数券を買っていつも2等を使っていた。人が少なくて快適だったが、周囲からは「贅沢だ」と叱られたものだ。
製糖会社が原料や製品の運搬用に建設した鉄道は、レール幅が狭いので「五分車」と呼ばれた。製糖業が盛んだった当時は、南は屏東、北は台中まで五分車が敷かれていた。善化のは台南までは行かず、玉井や新市まで通じていた。このレールは軽便車(トロッコ)のレールにもなった。軽便車は1台に4人まで乗ることができる。乗り降りはどこでも自由だった。
◎なお、善化には善化製糖があります。製造部門は停止していますが、今も戦前と同じ場所で営業しています。敷地内にはショップもあるので、敷地の一部は一般も見学できるはずです。
◎製糖会社の様子が知りたいなら、麻豆近郊の総爺芸文中心もおすすめ。工場や事務所が復元されているほか、当時の日本人用社宅や線路も残っています。
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