代書筆15 さらば日本人
台湾人が恐れたこと
終戦後、台湾は中国に接収されたが、問題があった。「日本人をどうするか」、である。製糖会社や警察などで重要任務をする者は、1年間留用されることになった*1。善化ではそういう日本人は多くなかった。製糖会社にいくらかいたが、時期は長くなく、のちに全員帰国した。
こんな話を聞いた。新化郡の警察署で一人の警部が留用された。その警部は家の風呂桶を台湾人の某社長に売ったのだが、それを知った者が「某は日本人と親しくしている」と密告、彼は「日本人の財産を買ってやった」罪*2で捕まってしまった。当時は混乱しており、こんなことはよくあった。
*1 製糖工場の技術指導や、治安維持を日本人警察官にもさせるため。麻豆の明治製糖では役の低い順に帰国し、幹部は機械操作の指導や事務引継ぎのために残されたとか。最後に社長が引揚げる時は、台湾人社員一人一人と握手し、「あとを頼む」と言って去ったそうです。
*2 日本人の大半は終戦と同時に失業しました。そのため、道端で物売りをする人が続出しましたが、「日本人からモノを買うな・もらうな」という命令が出ていたそうです。
引揚げるまでの間、日本人はわりと敏感になっていた。中国人は「恨みに報いるに徳を以てす(=日本人に報復はしない)」*3と言っていたが、日本人はもちろん、彼らと親しくしていた台湾人もビクビクしていた。うっかりすると、「漢奸(中華民族への裏切り者)」にされかねない。善化でも、誰が日本人と親しくしていたか知られないよう、あるいは漢奸扱いされぬよう、みな身をひそめていた。
引揚げ前、日本人が台湾人に贈り物をしようとすることは多かった。私の場合も、一人が「黒檀の家具を差し上げよう」と言ってきたが、私は断った。それがどんなに善人で、仲の良い友で、内容が野菜だったとしても、受け取らなかったろう。理由は、例の警部の風呂桶の件だ。日本人と接触したり、何かもらうことのないよう、みな気を付けていた。
ある台湾人警察課長は、中国兵が来た後、「日本人と親しくしていた」と密告された。彼は役場前の木に吊るされ、みなの見ている前で打ちすえられたあげく、死んだ後も見せしめにされた。「ニワトリを殺して、サルを戒める」というわけだ。みな恐ろしがった。
*3 蔣介石のこの言葉のおかげで、「満州や朝鮮より安全に過ごせた」と感謝する台湾引揚げ者は少なくありません。ただ真相は、台湾に逃げてきた当時の国民党に日本人と戦う余裕はなく、「日本人に財産を置いて、大人しく出て行ってもらう」方が得策だったから、ではないでしょうか。
日本人気質に舌を巻く
当時、私にも日本人の友人はいた。彼は台北にたくさんの不動産を持っていた。引揚げ前に「もしほしければ、いくつかあげるよ」と言ってきた。台北登記所の所長と同郷なので、名義変更の融通がきくからだという。「自分が台湾に戻ってきたら、返してくれればいいよ」と言ったが、私はやはり断った。
彼は引揚げるまで退屈だからと、家族とともに台北で食堂を開いていた。「ヒマでつまらないんだよ」と、こうしてわざわざ面倒なことをしたのだ。
別の日本人夫婦は台北でレストランを経営していたが、やはり引揚げまで商売をしていた。引揚げ船は狭い、わずかな品しか持てず、日本人は銀行に預けた金を引き出すこともできない(日本に持ち帰れる金額は制限されていた)。それなのにこの夫婦は「最後の最後まで、お客様のために何かさせていただきたい」と言って、毎日店の入り口に座ってだんごを作り続けたのである。
ああ日本人よ、なぜそんなに働き者なんだ!
◎写真は現在の基隆港。台湾にいた日本人は北部はここ、南部は高雄港から引き揚げました。
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