代書筆2 幻の「台湾民主国」
兄弟たち
兄は大林で生まれ、私より10才以上年上である。大人しい性格で、善化では保甲書記(町村の事務方)を十数年やっていた。父が巡査補をしていた関係で、公的仕事の手伝いをしており、それで保甲書記にも就けたのである。父は兄に代書屋の看板を継いでほしかったが、試験に落ちて保甲書記に戻った。最初の妻は母の連れ子だが、彼女は早世したので、兄は後添いをもらった。
私と両親とも同じ一番上の姉は、陳子鏞の庶子・百海に嫁いだ。陳子鏞は大金持ちで、善化から台南にかけて広大な土地を持っていた。彼は日本の台湾領有に反対して、劉永福将軍*に莫大な資金を提供し、半年余りも日本に対抗した。しかし清は援軍を出してくれなかったので、劉将軍と一緒にアモイへ逃げた。そのため彼に日本国籍はなく、ずっと外国人扱いだった。のちに日本政府は「外国人の財産を没収して国有化する」と決めたので、仕方なく台湾へ戻ってきた。
百海の実母は妾だが、大変な見栄っぱりで自分専用の侍女が3人もいた。だが息子の嫁である姉は召使いを持つことはできず、纏足の体で7人の子育てと家事を自らやるしかなかった。中元節などは10以上のテーブルに客を招くので、とても大変だったそうだ。
次姉は子供の時は読み書きできなかった。のちに台南の資産家に嫁いだ。 弟は頭が良く、マレーシア語や北京語もできた。しかし酒と遊びが好きで、私の手伝いどまりだった。
その下の妹は、母が病気の時に生まれた子。母が育てられなかったので、乳母を雇ったが、のちに乳母の養女になった。成長して農家に嫁いだ。夫婦とも教育は受けていなかった。末の妹は、私の母が亡くなった後に、父の三番目の妻が生んだ娘。裕福な農家に嫁いだ。
*台湾に赴任していた清の軍人。日本統治に反対する台湾人たちは、劉をリーダーとして「台湾民主国」を結成して独立を宣言。日本と戦いましたが大敗。劉と主な者たちは、イギリス領事の手引き(かねてから非常時の手助けを約束していた)で台南からイギリス汽船に乗って逃亡しました。日本の軍艦は先回りしてアモイへ向かい、この船を調べたのですが、劉たちは船内で巧妙に隠れ、捕らえることができませんでした。
◎下記の過去記事もご参照を。
子供時代
私は1907(明治40)年8月10日に生まれた。子供時代はとても体が弱く、しょっちゅう病気をしていた。
マラリヤにかかったこともある。マラリヤにかかると熱が2,3日出るが、私は高熱に加えて脾臓も腫れて、かなり危なかった。当時日本人は各地にマラリヤ予防の施設を造っており、善化にもあった。日本時代、台湾人の衛生観念は低かったので、マラリヤ蚊が多かった。水道はなく、飲用水には排せつ物がたびたび混じった。どの家も豚を飼っており、フンの始末はちゃんとしていなかったので、蚊の撲滅はまず難しかった。戦後、米軍が薬剤の空中散布をしてから、ようやくマラリヤ感染は減った。
私は結核にかかったこともある。家族間で伝染していくので、当時肺結核は多かった。私は重い方だったが、医院に連れていってもらえず、郵便局にいた保険医に見てもらっただけだった。この人は日本人で、私に注射をしたが、重症だったせいかあまり効果はなかった。台南には結核の病院もあった。肺結核は慢性病である。たいていの人はかかると精神的ショックを受け、心が不安でつぶれてしまう。肺病にかかったら精神力が大切で、それで初めて長いこと病気と戦えるのだ。私の実母がかかった時は、長姉と次姉が世話をしていた。その頃小さかった私は母のところに行きたがったが、母はうるさいのを嫌がって、私が来るとお金を渡して外へアメを買いに行かせた。戦後になって、肺結核はようやく減った。
子供の頃、父に連れられてサーカスを見に行ったこともある。サーカスは台南にしかなく、台南運河のそばに常設されていた。中は広くて、いろいろな動物がいた。日本の木下サーカスは、台湾には数年おきにしか来ないが、それを見たことも覚えている。空中ブランコ、馬や虎、子牛の芸などがあった。今はサーカス団は、ほとんどなくなってしまった。
(表紙写真は、台南中心部の孔子廟。1665年創建、台湾最古の孔子廟で、台南観光で必ず行く場所の一つです)
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