代書筆3 子ども時代~日治台湾の学校教育
書房について
幼い頃は、父が家で漢文を教えてくれた。ただそれは遊びながらであった。
大正3(1914)から1年間、私は地元の書房(寺子屋のようなもの)に毎日通った。先生の家は大変な金持ちで、染め物や製糖などさまざまな事業を行っていた。その祖父は善化で唯一の科挙合格者だった。先生は総督府が認める紳士(土地の名士)で、書房を造るよう依頼したのも総督府だった。
総督府は、こういう書房の存在を支援していた。植民地の文化を尊重しているとして、国際的名声を保つためだろう*1。実のところ日本人は、台湾人が漢文を読むことを好んでいなかったのだが。
書房は先生の自宅の中にあった。家はとても広く、部屋はたくさんあり、下女も大勢いた。彼女たちはみな纏足していなかった。公学校*2の補習校という扱いだったが、実際は漢文しか教えなかった。生徒は十数人いて、だいたい私と同世代、みな善化の人間だった。女の子はいなかった。お金はいくらもかからず、授業は午後だけ。先生の教え方はとても厳しかった。まず先生がおごそかに漢文を読み上げ、次に私たちが読む。毎日暗唱させられ、できないと手の平をぶたれた。全部暗唱できると、次に移る。毎日暗唱するだけで、文の説明はなかった。当時覚えた漢文は、今でも少しそらんじることができる。
*1 孫氏はけっして親日家ではなかったと思います。ただし反日だったわけでもなく、どんな立場にも公平かつ冷静だったというのが私の印象です。*2 児童教育は、日本人用の「小学校」と、台湾人用の「公学校」がありました。1941(昭和16)年からは「国民学校」に統合されました。
公学校(小学校)の思い出
日本時代、小学校は普通教育だった。巡査が家庭を訪問し、その家の子供の状況をきちんと調べたうえで、学校へ行くようすすめる。たいていの台湾人は、何度も催促されてやっと子供を学校へ入れた。私の公学校入学は大正4(1915)年、8才の時。校門わきに大きなガジュマルの木があって、校舎は簡単な木造だった。
生徒の中には10代半ばの少年少女もおり、すでに結婚している者もいた。私の同学年は1クラスだけで、生徒は28人。うち女生徒は2人で、卒業後一人は産婆になり、もう一人は台南高女(女学校)に進んだが、1年後にストレスから亡くなったという。
教師はほとんどが日本人で、台湾人は少ない。女性教師もいたが、女学校を出ただけで、師範に行かずに教師になった先生もいた。当時は教師の数が足りず、教師一人で2クラス受け持ったり、公学校を出た台湾人が代用教員になることもあったようだ。私の学校には、校長のほか5、6人の教師がいた。キャリアの高い教師は校舎(教員住宅のことか)に住めたが、若い教師は校外に部屋を借りるしかなかった。
公学校は1年4学期制で、毎日半日通い、土曜は午前中の2、3時間だった。冬と夏に休みがあった。毎日朝礼があり、生徒全員校庭へ出て、校長の話を聞く。1、2年生はその科目の教師が教え、3年生以上はクラス担任が教えた。私の担任だった坂本先生はとても優しかったが、厳しい教師もおり、言うことを聞かないと手の平をぶった。男性教師はみな正装(軍服)でサーベルを下げていた。授業中はサーベルを職員室に置いてくる。
生徒はみな私服で、つぎの当たったシャツを着て、足は裸足だった。教科書は学校が支給するが、文具や紙は自分で買う。カバンはなく、道具類をふろしきに包んで通った。
授業の内容は、修身、国語、作文、唱歌、体育、算術、理科などだった。入学時は「ハナ」のような簡単な日本語から勉強する。当時習った唱歌、「ハトポッポ」や「ウサギと亀」などは、今もまだ歌える。体育の授業内容は走ったりするような簡単なもので、球技はまだなかった。高学年になると軍隊式の行進や整列をした。教育勅語もまだ覚えている。どの学校にも、校舎や講堂の脇に小屋があって、その中に教育勅語を納めた箱が置かれている。修身の授業では、必ずその文句を暗唱させられたものだ。
こういった正式な授業のほかに、菜園づくりもあった。農作と呼ぶ農業実習だ。教師が野菜の植え方を教え、最後はそれを収穫して料理する。課外活動として遠足にも行った。往復ともずっと歩きで山の上に行った。1度は汽車に乗って台南へ行き、台南二中の後ろの練兵場で、飛行機のショーを見た。これは台湾初の航空ショーだった。みな喜んで興奮した。
遊びについて語ると、男の子が一番好きだったのは銅銭遊びだった。2人一組になり、1文銭を斜めに投げ、どちらが遠くまで飛ばせるか競争するのだ。学校では、たまにおやつを買えた。学校の用務員が台南へ行った時に寿司やせんべい、高菜まんなどを買い入れ、学校で売ることがあった。安かったので、お腹いっぱい食べたものだ。
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