「じゃない感」とは?〜"自分たち"に対する違和感が持つ可能性の探究〜
こんにちは、株式会社MIMIGURIで知識創造室というチームのマネージャーをしている瀧です。リフレクションを活用した組織のナレッジマネジメントの実践や研究をしています。
突然ですが、「じゃない感」と聞いて、どんなことが思い浮かびますか?ものごとに対する違和感と言い換えることもできますが、「◯◯じゃないと違和感を感じる感覚」にも実はいくつか種類があるのです。そして、この「じゃない感」が集団でのものづくりや集団内の関係性づくりに大きな意味を持っているのではないかという仮説を私は最近持っています。
今回は、この「じゃない感」とは一体何か?これが、チームや組織など集団でのものづくりや関係性の構築にどんな意味を持っているのか?について、2024年の日本デザイン学会春季研究発表大会で議論されたことを記録しておく意味で書いてみようと思います。
「じゃない感」とは
「じゃない感」は、もともとデザインの知(デザイナーがデザインをするとき独特の知性)の一つとして須永剛司先生によって2014年に提唱され、私はこれを参照しています。
ここで、「デザイナーの話なら自分は関係ない」と思われる方もいるかもしれませんが、私は決して専門職としてのデザイナーだけが持っている知だとは思っていません。ここは議論が分かれる部分かもしれません。デザイナー特有の感覚がある部分もあると思いますが、ここではデザイナーではなくても持っている知として「じゃない感」を捉えたいと私は考えています。
では、早速「じゃない感」について書かれた文献を引用してみましょう。
2014年に初めてこの文章を読んだとき、私はデザイナー出身だったことも影響して、とても共感しました。そうそう!アイデアを出してはみるんだけど、なんか違うな〜と思いながら次の案、次の案と出していく感じ、あるある!デザイナーがやっていることをこんなふうに言語化しているのすごい!と思ったのを覚えています。
「じゃない感」について書かれている文献は、私が把握している限り下記の2つです。
日本デザイン学会の特集号論文「実践するデザイナーたちのデザイン知とはなにか?」(デザイン学研究特集号 第21巻3号 通巻83号, 日本デザイン学会, 2014)
書籍「デザインの知恵」(須永剛司,2019)
いずれの文献でも、一人のデザイナーがアイデアを出し、試行錯誤していく文脈の話として語られています。
ですが、これらの文献には書かれていない「じゃない感」について、2024年の日本デザイン学会春季研究発表大会の中で議論がありました。
2種類の「じゃない感」の違い
もともと最初に提唱された「じゃない感」は、デザイナーがデザインをしていく過程で試行錯誤するときの話として語られていました。私はこれを、自分が描いたものに対して自分で違和感を感じる一人称の「じゃない感」と捉えています。
そして、私はこの一人称"私"の「じゃない感」をチームの活動、すなわち二人称"私たち"の「じゃない感」へ応用して捉えようとしていました。他者と共同で試行錯誤する活動の中で、チームで描いたものに対して感じる違和感、すなわち他者との協働の中で生じる"私たち"の「じゃない感」について考えていました。
ただ、チーム活動、他者との協働の中で生じる「じゃない感」にも実は2種類あったことがデザイン学会での議論でわかったのです。
それは、自分たちに対する違和感としての「じゃない感」と、他者に対する違和感としての「じゃない感」です。要は「じゃない感」を誰に向けるか、 "他者"へ向けるのか、"自分たち"に向けるのかの違いによるものと言えそうです。
今年のデザイン学会春季大会では、この「じゃない感」の違いを明確にして使わないと、「じゃない感」という言葉が誤解されて一人歩きしてしまう危険性があるのではないかという議論もされました。
ここからは、この2つの「じゃない感」の違いを紹介します。この先に書く内容は、デザイン学会での議論をもとに私なりの解釈で言葉にしてみたものです。あくまで一つの捉え方として見てください。別のこういう捉え方もあるのでは?という提案、ご意見、大歓迎です!
「じゃない感」その1ー"自分たち"に対する違和感
チーム活動の中でチームとして自分たちが考えたことに対して「これじゃない気がする..」と違和感を示す「じゃない感」があります。これは、自分一人だけへ向けた違和感ではなく、他者だけへ向けた違和感でもなく、あくまで自分を含む"自分たち"、チーム全体に対する「じゃない感」と言えます。
チームの中で誰かが示した考えがベースにあるとしても、それを"他者"のものとしてみなすのではなく、"自分たち"のものとして見て、チーム全体で"自分たち"の考えに対する「じゃない感」を感じとるのです。
「じゃない感」には「こんな感じじゃない?」提案感も含まれる
ちょっとした違和感を感じとると同時に、もっとよくできる!という未来への可能性を信じて示される感覚と言えそうです。言い換えると、「これじゃない..」という違和感と同時に、「こんな感じじゃない?」と新たに提案したくなる感覚も含まれるのではないかという議論もデザイン学会ではありました。
この"自分たち"に対する「じゃない感」は、現状への違和感と未来への可能性を信じる感覚が同時にはたらくため、次の創作行為を駆動する原動力になりうるものという点では、もともと最初に提唱された「じゃない感」と共通していそうです。
もともと須永先生が最初に言語化した「じゃない感」でも、
と書かれていたように、「じゃない感」は単なる現状への違和感だけではなく、次の可能性も含まれた感覚なのです。
参考に、「じゃない感」の提唱者である須永先生がデザイン学会のディスカッションで語っていた話を一部紹介します。
「じゃない感」その2ー"他者"に対する違和感
一方で、もう一つの「じゃない感」は、他者の考えに対して「そうじゃないよ」と違和感を示す「じゃない感」です。これは、他者の考えを否定し、自分の考えの正当性を主張するような態度にも見えます。
「じゃない感」その1の"自分たち"に対する違和感では、チーム内で自分と他者の境界線はなくチームは一体でしたが、他者に対する「じゃない感」では自分と他者の間には明確に境界線が引かれ、チーム内に分断が生まれる点が「じゃない感」の違いと言えそうです。「そうじゃないよ」と否定されてしまうと、それ以上対話ができずじまいになってしまい、関係性を深めるなどもっての外です。
"自分たち"への「じゃない感」が持つ可能性
ちなみに、私は2024年のデザイン学会春季大会で、「デザインの専門性を活かしたナレッジマネジメントの実践と研究」というタイトルで、MIMIGURI社内で実践しているナレッジマネジメント活動の中で、デザイナーとしての経験をどのように活かしているのかを考察した内容を発表しました。このとき、「じゃない感」を互いに開き合うことが起点となり、組織内での暗黙知の形式知化が進むと同時に、組織内メンバー間で対話が活性化し、関係性が深まるのではないかという仮説を示しました。
私のデザイン学会の発表資料を参考に貼っておきます。
このとき私は、"自分たち"に対する違和感としての「じゃない感」の話をしており、"他者"への「じゃない感」は一切触れていませんでした。(普段、MIMIGURI社内では"他者"への「じゃない感」が示されることは少なく、"自分たち"への「じゃない感」が示されることが多く、それが当たり前になっていました。)
しかし、デザイン学会の私の発表後の議論で、「あなたの言うそれはそうじゃないよ」のような他者を否定する「じゃない感」が語られる組織も少なくないのではないかという意見が出て、確かにそういう組織もあるだろうと納得しました。
それと同時に、なぜ"自分たち"への違和感として語る態度ではなく、"他者"への違和感、他者を否定するような態度がとられてしまうのだろうか? どうしたら、"自分たち"への違和感としての「じゃない感」が語られ、チームで一緒によりよいものを探究していけるチームになれるのだろうか?という問いが湧いてきました。
知が生まれてくるチームは、「もやもや」を開きあっている!?
私がここ数年探究してきたことは、ざっくりいうと「共同で知を生み出していけるチームや組織づくり」と言うことができるかもしれないと思ったと同時に、共同で知を生み出していくために大事なことは、"自分たち"ごととして違和感をチーム内で開き合うことができるか否かではないかと気づきました。
昨年私はチームで「もやもや」を開きあうふり返り手法「KMT」「KMQT」を開発したのですが、「もやもや」など、なんとなく気になることや違和感をチーム内で開きあうことは、価値創出とチーム内の関係性づくりの両側面で意味があるのではないかと改めて感じています。"自分たち"に対する違和感としての「じゃない感」は、「もやもや」に言い換えられるものと言えそうです。
「もやもや」を開きあうふり返り手法「KMT(Keep/Moyamoya/Try)」については以前書いたnote記事をご参照ください。
他にもあった「じゃない感」にまつわる議論
今年のデザイン学会春季大会では、他にも「じゃない感」の話が起点となって興味深い議論があったので、今後さらに議論を深めていく機会があることを期待して紹介します。
「じゃない感」が「いいね感」に変わる過程
集団内で対話が活発になるためには「じゃない感」だけでなく逆の「いいね感」が語りあわれることも大事ではないか。「じゃない」が「いいね」に変わる過程に知があるのではないかという意見も出ました。確かに、チーム内で「いいね感」と「じゃない感」の両方を開きあうこと、対話を通して「じゃない」を「いいね」に変えていく活動によってメンバー間の関係性が深まるのはありそうです。この一見ポジティブ、ネガティブ両方の感覚を開きあうことの意味もまた今後探究してみたいところです。
"自分たち"がつくったものを主体的(subjective)に見る
特に今後に向けて中長期的に考えてみたいと思ったトピックとして、「主体性(subjectivity)」の重要性に関する議論がありました。
"他者"の意見に対してではなく、"自分たち"がつくり出したものに対して、主体的に(subjectiveに)見ていく知恵がデザインの中にあるんじゃないか。
他者のものとして客体化して見るのではなく、自分たちものとして見る。自分たちのことを見るという学問としてデザインが広がろうとしているということではないか。これは今後のデザイン学の探究テーマの1つになりうるだろうと感じました。
今年のデザイン学会では、私が実践しているナレッジマネジメント活動について「じゃない感」を起点した考察を発表したところ、「じゃない感」の議論が盛り上がりました。新たな「じゃない感」の捉え方、デザイン学として今後向き合っていきたい話にまで発展して、とても有意義な時間でした。グッドプレゼンテーション賞をいただいたのですが、私の発表内容そのものというよりは、発表後の「じゃない感」議論につながるきっかけづくりができたのがよかったのだろうと思っています。
このnoteで紹介した話は、あくまで今年のデザイン学会で議論された「じゃない感」の話で、まだまだ探究途中な議論です。学会に参加すると、毎回新たに探究したいことがたくさん湧いてきて楽しいのですが、結局全部は探究しきれないのが悩ましいところです。私は今後もしばらくは、"自分たち"への違和感としての「じゃない感」が持つ可能性の探究を続けていきます。また、何か新たな気づきがあれば、どこかで紹介したいと思います。
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