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スカウティング“モモ”をふりかえる。

松木 正さんのマザーアース・エデュケーションと宇井 新さんのカムワッカとの、ティーンエイジとおとなが混ざった一泊二日のプログラム「スカウティング“モモ”」を、6月8日9日の二日間、ライジング・フィールド軽井沢にて開催した。
軽井沢では初開催となるこのプログラムに、運営として、緊張感を持ちながらどきどきわくわく臨んだ。

“スカウティング”=インディアンの部族の目と言われていた「スカウト」、“モモ”=ドイツ児童文学作家ミヒャエル・エンデの「モモ」からそれぞれとって本プログラムタイトルができていて、その両面から今回のプログラムの根底や細部にあったものを見ていきたい。

すごく長くなってしまうので、今回はスカウトの観点で振り返ってみる。

古来よりインディアンには部族の目と言われるスカウトと呼ばれる人たちがいて、自分がスカウトであるということを明かすことなく、愛する者たち、部族を守ることに尽くした。自然の中で生きる術を身につけ、自然に溶け込み、自らの存在を消し、必要に応じて他部族の中に入り込んで、部族に必要な情報を持ち帰っていた。
そのスカウトの持っていた4つのチカラが、「アウェアネス」「サバイバル」「トラッキング」「パトローリング」だ。

そして、「感覚に目覚め、自らの生命が守られ、しあわせの中で生き抜いていく」ことをコンセプトに据えた今回のプログラムの、ど真ん中にあったのが“アウェアネス(Awareness)”だ。

本プログラムを進行する松木 正さんはAwareness の意味に一番近いのは「自覚」だと言う。
普段僕たちの意識は考えることに向いている。思考の世界にいて考えて考えて考え抜いて脳を疲労させている。しかし、このAwareness の、「何かだ」とハッと気付いたり感じたりするような感覚に意識を向けること、感覚のレイヤーに意識を向け自覚し、感覚が覚醒していくことが大事なのだと。

マザーアース・エデュケーション 主宰 松木 正さん

そしてもう一つ、大事な基本姿勢についてを伝えていた。スカウトが大切にしていた基本的姿勢である「ベースライン」を守る、ということだ。ベースラインというのは、野生の世界、自然の動物の世界であり、お互い同士が息を潜ませている状態。自然が、自然にあるがままの状態に、そのようになろうとすることだ。
僕たち人間が、普段生活しているような歩き方や喋り方、物の見方でズカズカと自然に踏み込んでいく時、ベースラインは壊れてしまう。動物たちはその随分前から彼らのAwareness で気配を感じて警戒音を鳴らし身を潜めてゆく。それは湖面の波紋のようにあっという間に森の奥の方へと伝わっていってしまう。
自然の中で生きる術を身につけ、自然に溶け込み、自らの存在を消し、必要に応じて他部族の中に入り込んで、部族に必要な情報を持ち帰るというスカウトの基本的姿勢が「ベースライン」を守るということなのだ。

今回のプログラムでは、「シェルターをつくる」ということと「火をつくる」ということの二つのプログラムの柱が立っていた。

宿泊場所などというものはない。森の中にある枯れ枝、枯葉を拾い集めてその材料だけで「デブリハット」というシェルターをつくって森の中で一晩眠る。翌日に森の中で薪となる枯れ枝を拾い集めて、各々薪組をして火を熾す。その火で高さ160cmに張られた麻紐を切るという、なんともプリミティブなキャンププログラムだ。

松木さんは、デブリハットが崩れてしまわないように支えている枯れ枝の骨組みは、言うなれば父性。そして、外気の寒さから守り温もりをつくってくれる枯葉が母性だ、と言っていた。
ティーンエイジの子どもたちは、物理的に親から離れ、それぞれが一人暗闇の森の中で孤独に眠る。しかしそこでは森の父性と母性に確かに触れ、しっかりと守られ包まれながら一人夜を越え朝の光をむかえていた。
森から出てきた子どもたちの、ちょっと得意げであったり、あるいは気恥ずかしそうな、でもどこか誇らしげな表情がなんとも清々しく、とても印象的だった。

火を熾すプログラムでは、おのおのが森の中に入って枝と出会い、その枝たちを一本一本組みあげ炎を高く舞い上げる。
インディアンが「火」の話をしているときは「しあわせ」についてを語っていると言う。この火を熾すプログラムでは、薪や火に自分自身や在り方がまざまざと映し出される。
高く張られた麻紐を熾した火で焼き切ることが目的ではあるが、大事なのはそのプロセスの中で起こる様々な出来事、瞬間に感じること、気付かされることだ。

それにしても先月開催した「火のワーク」より麻紐を焼き切れた人が圧倒的に多かったのは、もしかしたら森の中で一晩過ごしベースラインに溶け込んだ後におこなったことが影響しているのかもしれない。あるいはおとなたちが子どもたちに感化され溶け合って、思考に寄らずまるで夢の中にいるように没頭し創造的に取り組めていたからなのかもしれない。おとなたちのなんとも真剣で無邪気な表情を見ていてそんな風に感じた。

この二日間、デブリハットや火を熾す技術についてを学んでいるようで、実はその過程の中でAwareness(自覚)やベースラインといったものを体感し味わい尽くしていた。
きっと子どもたちもおとなたちも、それらを見聞きしたり本で得たような知識としてではなく、感覚体験を伴う身体知として持ち帰ることができたと思う。

そして、森の中で一人で眠り、火と向き合ったこの経験を経て、多感なティーンエイジの子たちの、悩みながらひた走る大人たちの、みんなの心の中に熾火が残ったのではないだろうか。

その熾火は、いつでも、おとなになっても、そこからまた火は熾きる。


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