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4. 自分の大切なものに触れるためのプロセスとしてのアート
七人の導き人たちと焚き火を囲みながらおこなった、
いのちのアカデミアのキックオフ
そんな中であった一つの話
アートはいのちに繋がる技術だ
と言ってくれた友人がいた
何かすごい結果を出すためとか
何か素晴らしいものを生むためではなく
何か自分の大切なものに触れるためのプロセスとして
僕はアートというものが新しくこの時代に存在すると思っている
僕は絵を描くとか
色を使うとか
色を通して自分の無意識化にある様々な思いを
感覚的に表すということと
その感覚的に現れたものを通して
今の人類の知性である言語というものを通して
それが何であるかということを
共に理解し合う場をつくれたら
いわゆる言葉ではなく
色だったり感じるというチカラが
特別な人にだけあるわけではなくて
誰しもが持っていて
その誰しもが持っているチカラを通して
共にいる人の
優しさとか
愛とか
いのちそのものがひらくんだということを
共に自覚し合う場になるのかなと
この今の時代に
どう自分を最適化していくかとなった時に
つらいとか
悲しいとか
何か違う気がするという
いのちの声
いわゆるネガティブな声みたいなものは
やっぱり利益を産むポイントからすると必要とされないし
必要としないことで早く進めるということがあると思う
けれど、
その声が聴こえなくなることで
自分の人生というそのものが
だんだん萎んでいってしまう
アートというものが
何かを表現するためではなくて
自分の耳を塞いでしまった声に
耳を傾ける時間となる
それを通して
自分の中の色が増えることで
人生に対しての
目の前に広がる色も増えてくる
それを発見したり
思い出す時間になったら
森には樹がいっぱいあって
樹そのものを
その人個人が生きていることだとすると
それはよろこびや悲しみも含めて
その人の生き様というものが
枝葉をつけて
時に葉を落として
そのプロセスそのものが
生きるということそのものが
ほかの樹だったり
ほかの生物たちが
より良く生きるための
一つの環境になり得る
自分の感情を閉じていくとか
いらないものにしていくというプロセスがある中で
やっぱり、
自分が取り戻して
自分が発露することで
結果的に関わり合いが豊かになるということがある
それを共に感じ合えたら
誰もちっぽけな存在ではない
誰しもが、誰かにとっての大切な存在だったり
勇気を与える存在であるってことは
確かなものとして
ひらいていく