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夏休み、最後の一人旅

乗り換えのアムステルダムから大阪行きの飛行機に乗った瞬間、機内放送で日本語が流れてきて、ふいに涙目になる。ナイロビからアムステルダムまでも同じKLM航空だったけど、英語でなされた機内放送は、こんなにも丁寧ではなかった。ああ、そうだ、これが、私の愛する母国。

3年振りの日本。それも前回は5年振りに、長すぎた旅路に区切りをつけ、ケニアに片道切符で戻るために、たった10日ほど帰っただけ。その後ケニアに住まう暮らしを始め、そこで家族もできてから、初めてゆっくりと帰る日本。うまく言えないけど、初めてきちんと、帰る、という感じがする。

妊娠後期に長距離国際線に乗ることや、コロナ禍に日本へ入国することに賛否があることは重々承知しつつ、始動し始めたケニアの会社を2人して長く不在にはできないと、旦那さんにはケニアに残って貰い、私だけが帰ることにした。だからこれが、人生で、本当に最後の、一人旅。

一人で空港内を移動しながら、あるいは飛行機に自分だけで座りながら、独りで世界を放浪したあの5年間を思い出す。よくもまぁ、1人ぼっちであんなにも長く、世界の色んなところを歩き回ったもんだ、とまるで他人事のように。もうすぐ母親になる身として、もしも息子が将来同じようなことをしたら、と考えると心配でしょうがないわけだから、両親はどんな気持ちで娘の不在を受け入れていたのだろう、と改めて思いを至らせてみる。

久々に故郷に帰り両親に会える嬉しさと、旦那さんと初めて長く離れる寂しさと、大好きなケニアの暮らしへの恋しさと。色んな感情が混ざってあまり実感もわかないまま、降り立った関西国際空港。到着時のPCR検査や水際対策にまつわるあれこれが、驚くほどきちっと丁寧に段取りされていて、思わずニヤニヤしてしまう。こんなにもちゃんと整理されている国を、私は日本以外に知らない。旦那さんやその友人によく、「お前は本当にきちんとしてるよなぁ」と言われる度に、いやガサツなほうなんだけど、と頭を捻っていたけれど、そうか、それでも私は、間違いなくこの国で生まれ育った、日本人なのだ。


海外に長く住む日本人にとって、自分のアイデンティティについて考えることは、避けて通れないことなのかもしれない。自分の生まれ育った国である日本だけれど、長く離れて生きてしまうと、その至る所に違和感というか、何か遠い国を客観的に見ているかのような感覚が伴う。それはきっと恐らく、私がもう、完全には日本に属せてないからなんだと思う。かと言って、私はケニア人でも、他のどこの国や国籍に属するわけでもなく。私の今のアイデンティティはきっと、日本人であり、日本人ぽくない、という曖昧な感じなんだろう。それを寂しく思うと同時に、だからと言って元に戻りたいと思うわけでもなく。

それでも故郷の田舎に着くと、上京を夢見ていた幼い日の自分の面影を見つけずにはいられず、たまらなく愛おしい気持ちになる。ここよりも大きな世界、を夢見ていた少女は、東京をすら後にして、遥か彼方、アフリカの地に居場所を見つけてしまうのだから。当時ありもしないのに、何故か流れていたセブンイレブンのCMを見ながら、いいなぁ、いつか東京に行きたいなぁ、と、憧れていた、あの田舎娘が。


実家の窓から見える景色は、あまりにも平和で静かで穏やかで、あきらかに年老いていっている両親の姿に、過ぎた空白の時間の長さを痛感させられど、やっぱり、ふるさとは、故郷のままだ。ここが、私が私である所以の、源。

ようやく出来た原点回帰は、日本で生まれ育った日本人である私と、旅の延長に、遠くアフリカのケニアで日本人として生き家族を育み始めた私、の間に出来ていたギャップを、確実に滑らかにしてくれている気がする。でも私はもう、ここには属していない。私の居場所は旦那さんのいるところであり、息子と家族みんなで生きていく場所が、私のこれからの、新しいホーム。

それでもいつかまた、この国に暮らす日は来るかもしれない。息子にはアフリカンであることを誇りに思って生きて欲しいと同時に、もちろん日本人であることをも誇りに思えるように育ててあげたいから、家族でいつか住みたいね、と旦那とも話している。ミックスの子どもとして避けては通れないであろう、自分は何者か、という葛藤に、できるだけの機会を用意してあげるのは、きっと私たち両親の役目だ。

始まったばかりの日本滞在だけど、既に次に帰る時のことを考えている。次は必ず、旦那と息子と、3人で。そして2人に見せてあげたい。私がどこからやってきたのかを。この小さな故郷の、美しさと平穏さを。日本という国の、素晴らしさを。

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