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創業した時の話 その2

千葉在住の40代。
映像やウェブの制作などを行う制作会社と、妻の実家であるバイク屋を経営しています。2010年創業。


兄が事故に遭う

〜2009年6月〜
私は大した決意もないままに創業しようと会社を辞めました。
しかしその直後に、私の兄が事故にあい大きな怪我をしてしまいました。
命に関わる重篤なものでした。
両足大腿骨骨折、脳挫傷。。。。
築地の病院に救急搬送されましたが、私がたどり着いた時には生きるか死ぬかの瀬戸際の状態でした。
お医者さんがいうには、一般的には両足の大腿骨が同時に折れるほどの衝撃だとショック死する人が多いそうです。
ちなみに後日、兄はこの日に死んだおばあちゃんにあったとか魚がいたと言っていました。三途の川だったのかもしれません。

なんとか一命をとりとめたものの、ここから兄とのとってもヘビーなリハビリ生活が始まりました。
医師に「最終目標は自宅で一人で留守番できること」と言われました。
私には父親がおりませんので、私、母、兄の3人で、ここから途方もなく長いリハビリの道を歩き始めることになりました。

悪いことは続くもの

ちなみに兄が事故にあった翌日、車上荒らしにあいました。
「悪いことって続くんだな」
と学んだ瞬間でした。

もちろん警察に被害届を出しましたが、警察は犯人を探す気も捕まえる気もさらさらないようで、その後は連絡一本ありませんでした。

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兄の介護をしながらも、創業のための模索は続きました。
事業主とか以前に、何も取り柄がない。
稼ぎもない。
色々と調べ、こんなところを見つけました。

創業サポートセンター

ネット検索で、田町に創業サポートセンターというものがあることを知りました。
(職業能力開発総合大学校 起業・新分野展開支援センターの略称らしい)
とりあえずここに行ってみたら、創業者や事業者さんと知り合うことができ、色々な勉強会にお誘いいただけるようになりました。
初めて仲間ができた瞬間でした。

しかし、、、、、

This Is 事業仕分け

当時、流行語にもなったアレです。事業仕分け。
襟を立てたあの女性の「2番じゃダメなんですか」という言葉を思い出しますが、これにより、なんと創業サポートセンターの閉鎖が決定しました。
2010年の3月に閉鎖するとのことでした。

兄の介護は続く

兄は一命をとりとめた後も症状は重く、両足は動かず左手も使えないという状態でした。高次脳機能障害という診断も受けました。
病院の中庭に車椅子でお散歩に連れて行くのが楽しみという生活でした。
スポーツジムに行ったりジョギングをしたりと体を動かすことが好きで健康的だった兄を乗せた車椅子を押している。
複雑な気分ではありましたら、それでも兄が喜んでくれているので嬉しかったです。
リハビリの成果が出て、車椅子から歩行器、そしてつかまり立ちができるようになった時には、事故から3ヶ月以上が経っていました。
2009年12月に東京の築地の病院から千葉県の房総の方の病院に転院しました。リハビリに特化した病院です。
兄のためにも、介助している母のためにも、自分が早く稼げるようにならなければ。
不安と焦りが積もっていきました。。。。

『Catch-22』 平成22年2月2日に創業

2010年2月2日、とうとう開業届を提出しました。
『Catch-22』
アメリカのスラングで、矛盾した出来事・状態に遭って身動きが取れない、どうしようもない状況のことを意味しています。
平成22年2月2日に操業すれば、それ以上悪くはならないんじゃないか?
弊社の開業の瞬間でした。

初めての仕事

初めての仕事は、友達の実家の割烹料理屋さんのウェブサイト作成でした。
茨城県の料理屋さんで、社長はぱっと見は怖そうなのですが、ハートフルでとても情熱的な方です。
現在でも弊社のお客様として続いております。

しかし当時、やったこともないことでプロとしてお金をもらう。
とんでもない緊張感と恐怖感でした。
喜んでいいただけたときは本当に嬉しかったです。
この日の喜びは今でも忘れません。

ちなみに見積書や請求書などをネット情報で見よう見まねで作っていましたが、収入印紙というものの存在を忘れていました。
そんな2010年3月でした。

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初仕事は順調にいきましたが、それでもまだまだ金はなく、携帯電話代を払うために生命保険の貸付をするような暮らしです。

続く。。。

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