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【長編小説】やがて動き出す、その前夜 第二話 父の宣言

 堺家は便利のいい場所にある。国鉄と阪急、ふたつの高槻駅から徒歩五分以内。歩いて三分で松坂屋、十分で西武のデパートに行ける。
 徒歩一分で、にぎわっている商店街まで行けて、大通りはすぐそこなのに、三軒奥に入るだけで、騒がしい喧噪は消え、のどかな静寂に包まれる。
 向かいは老舗の和菓子やさん。有名だし、美味しいので、ちょっとしたお遣い物にはここのお菓子を買うことが多い。

 百合子はこの街が好きだ。習い事もアルバイトも、すべて歩いて行って用が足りた。けれど、ずっとここで育ってきたから、便利がよくて当たり前、と思っている。
 百合子にとってはこれが普通で、あまりありがたいとも思っていなかった。

「来た。」
 小さく扶美子が呟く。車のエンジンを切る音が聞こえるのか、チャイムよりも早く気付く。やがて父が引き戸を開けて入ってくる。

「いま、帰った。」
 女衆三人は、深く頭を下げ、声を揃える。
「お帰りなさいませ。」

「うむ。ご苦労。」
 父は満足気に言うと、三人の先頭を切って歩き出すのだが、上着を脱いでは捨て、ネクタイを取っては捨て、とにかく歩きながらどんどん服を脱いでは床に投げ捨てていく。
 回収するのは、もちろんあとに続く女どもである。

 家の鍵は百合子が掛け、入り口のカーテンを閉めてから、みなのあとからついてゆく。元は、鍵閉めは扶美子の役割だったのだが、あまりにも掛け忘れが多くて、不用心だ、ということになったのだ。
 扶美子は何度怒られても、へらへらして真剣に聞いていないし、役割を替えるしかなかったのだ。

 父は最終的にはステテコ姿になって、居間にたどり着く。衣文掛けに掛かっている着物を、母が素早く父に着せ掛け、帯を結ぶ。父はぴしっと立って、されるがままになっている。
 百合子と扶美子は父の脱いだ服を、洗濯するものとしないものに分け、ワイシャツなどは洗濯籠へ、背広やネクタイやベルトは、ハンガーに掛けて、居間の端に掛ける。

 そして女三人は、すみやかに食事を用意する。百合子がおみおつけを温めて、お椀によそい、料理を扶美子とふたり、それぞれ長四角のお盆に乗せて運ぶ。居間では母が、おひつからごはんをお茶碗に盛り付けている。
 父は胡坐をかいて、もう席についている。腕組みしているが、百合子がちらっと顔を覗いたら、微笑んでいるようだった。今日は機嫌がいいのだろう。

 みなが役割を終えて席につくと、父はぐるりと満足気に見まわし
「では。いただこう。」
 と言う。女三人が、
「いただきます。」
 と、手を合わせ、声を揃えて言う。

 おみおつけの汁を一口飲み、ごはんを一口、おみおつけの具を一口食べたら、やっと、おかずに手をつけていいことになっている。
 父がなにか話題を持ち出すまでは、百合子は黙っていることにしている。母もそうしている。扶美子だけが、たまにしゃべりだすことがあるが、大概は黙っている。

 今日、父は、ぐるりとみなを見回し、
「みんな。話がある。父は、鶏を飼うことに決めた。」
 と、笑顔で高らかに宣言した。百合子はとてもびっくりして、魚を取り落とした。

「鶏、ですか?」
 母はとても険しい顔をしている。また思いつきで振り回されてはかなわない、と思っているのだろう。
 反対に扶美子はわくわくしながら展開を見守っているようだ。下手に口を出さないから、お利巧だ。

「ああ。鶏や。」
 父の笑顔は崩れない。

「なんでまた、そないなこと。」
 母は食い下がる。
「なんや。産みたての卵、食べたないんか。朝ごはんに産みたて卵かけごはん。美味いぞう。なあ、扶美子。」
 扶美子を選ぶあたり、父も賢い。
「うん! お母さん、産みたて卵食べたいわ、うち。」

 母はしれっと父に眼差しを投げて、
「へえ。扶美子の分もあるんですか。一体、何羽飼うおつもりですか?」
 と追及する。父はそこまで考えていなかったようで、
「四人だから、四羽だ。」
 と急いで言う。

「どこで。」
「中庭だ。」
 堺家には、猫の額ほどの中庭があるのだ。

「あきません。」
「なんでや。もう鶏小屋を頼んでもうた。三日後には大工が来るぞ。」
 百合子と母は、驚いて息を飲んだ。面白そうににやにやして、成り行きを見守っているのは扶美子だけだ。

「鶏よりも、お風呂なんとかしてもらわんと。冬場は銭湯からの帰り道、洗い髪が凍ってまいそうで。」

 堺家には、風呂がない。
 母が言っているのはリフォームなんかの大それたことではなく、室内に巨大シェルターのようなお風呂場を置いて欲しい、ということなのだ。
 宇宙船のようななかに入ると、湯舟もあるし、洗い場もあって、シャワーもついているらしいのだ。

 そんな夢のようなお風呂の話を、父が最初に始めたくせに、全然実現しそうにないのだ。新しもの好きの父は、くるくると興味の対象が移ってしまう。

「冬場って、まだ春先やないか。そないに焦らんでも。」
「そない言うて、そのまんま、年越してしまいました。」

 父はぐっと言葉に詰まった。
「わかった。風呂もやる。鶏もやる。それでええやろ。」

「お姉ちゃんも、なんやお父さんにお願いしたら? 今日のお父さん、気前がええよ。」
 扶美子がこそっと、百合子に耳打ちした。こそっと、と言っても、もちろん父にも聞こえているのだ。

「なんや。百合子、言うてみ。」
 百合子はおねだりしたいものを、すぐに思いつかなかった。絞りだして、
「油絵を描くためのイーゼルが、少しがたついてきたので……。」
 と、苦し紛れに言った。

「ええやろ。それも買うたる。扶美子は?」
 扶美子は満面の笑みで、
「うち、ハワイ行きたい!」
 と言った。

「あほぬかせ! 却下!」

 百合子は驚いて扶美子を見た。扶美子は自分のおねだりが叶わないことを、百も承知で言ったのだ。
 扶美子は冗談を言ってふざけたかっただけなのだ。そのために、わざと百合子に振ったのだ。三段落ちってやつだ。
 ダシに使われたと思うと、隣でにやにや笑っているほっぺを、つねってやりたくなった。

 それきり食卓は静かになった。扶美子のにやにや笑いだけが、漂っていた。


(第三話につづく)

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