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【短編小説】蜜柑

 晃一は世田谷という街が好きだ。

 学芸大学駅から徒歩5分のロフト付きのアパルトマンに住んでもう7年。
すっかり四国弁も抜けて、生まれたときから世田谷に住んでいるように馴染んでいる。

 不思議な街だ、世田谷は。

 いわゆる都会的喧噪など一切なく、鳩たちのくるっぽーという鳴き声で目が覚める落ち着いた街、背の高い建物が視界を遮ることもない。

 商店街はセンスのいい店と居心地のいい人情味のある店が並び、どちらもとても活気がある。

 静かで居心地のいい、おしゃれな住宅地。それでいてどこへ出るにも便利がいいし、家賃さえ高くなければ最高だと思う。


学芸大学駅 商店街


 その唯一の悩みの種だった家賃も、彼女との同棲が始まって家賃を折半するようになったので、問題解決済みだ。

 晃一はイタリア料理店でシェフとして働いている。
 新潟から出てきた彼女のくるみはアパレルショップで販売員をしている。

 こんなに素敵なカップルがいるだろうかと晃一は思っている。
 くるみが来てから、晃一の部屋は変わった。(同棲しているのだから、もうふたりの部屋だけど)。

 北欧のデザイン家具、食器、リネン、キャンバスに印刷され、壁に飾られたデザインアート。カラフルで、スタイリッシュでかわいらしい。

 服飾に憧れ、センスを磨いてきたくるみらしい、洒落た部屋になった。

 晃一の服装もくるみが一緒に選んでくれるので、すっかりあか抜けたものに変わった。

 もはや四国の匂いも新潟の匂いもどこにもない。

 そんな晃一が唯一頭を悩ませているのは、実家から送られてくる段ボール箱だった。

 晩秋には必ず蜜柑が届く。
 乾燥うどんや、干しいもや、お袋が作った味噌などと一緒に、大量の蜜柑が届く。

 実家にいたころは、こたつのなかで足をつつきあいながら家族とひたすら蜜柑を食べた。

 ストーブの上にはヤカンが乗せられ、そこから発する水蒸気のせいで、窓は白く曇っていた。

 兄がその曇ったガラスに指で絵を描く。

 親父はテレビを観ながらせっせせっせと蜜柑を食べ、爺さんは入れ歯を浮かせながらうたた寝をし、ふいに起き上がると入れ歯のない口で蜜柑をしゃぶる。

 お袋はなにがそんなに忙しいんだか、せわしなく部屋を出入りして合間合間に蜜柑を食べる。

 今年も実家から段ボールが届いた。
 晃一はなんだか気分が落ち込んでしまった。

 おれはもう、愛媛の田舎のだらだらした生活からは卒業したのだ。

 今年からはくるみもいるんだし、この家にはこたつもなければ、蜜柑を入れるざるもないのだ。

 こたつがどんなに気持ちよくても、そこで食べる蜜柑がどんなにみずみずしくて甘くても、もうそこには戻りたくないのだ。

 アイランドキッチンの高いスツールの前に並ぶのは、ルッコラのサラダと柚子胡椒を効かせた和風パスタと、低温調理器で加熱した中まで柔らかいローストビーフなんだ。

 晃一が段ボールの中身を前に苦悩しているあいだに、いつの間にかくるみが帰ってきていた。

「あ、お蜜柑」
 くるみは言うのだ。こたつで食べる蜜柑は最高だと。

 最近日暮れが早くなって、メランコリックな気分になって、新潟の田舎を恋しく思っていたところだったのだと。

「晃ちゃん、年末どうするのかな、ってちょっと思ってたんだ。飲食店だから休みとか取れないのかなって。だったら私はどうしたらいいのかなって、正直に言えばね」

 晃一は勇気を出して言ってみた。

「くるみ。この家にこたつ、買ってもいい?」

 くるみは弾けそうな笑顔で、首を二回縦に振った。晃一はなんだか無理して肩ひじ張っていた自分に気が付いた。

「こたつに蜜柑、やっぱり最高だよな」

 そんなわけで、次の休みを合わせて、こたつと下に敷くラグと、蜜柑を入れるざるを買いに行くことにしたのだ。


≪おしまい≫

読んでいただき、ありがとうございました!

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