【短編小説】天空レストランの紳士(3/3)
美味しいものを、一流のお店で奢ってもらったはずなのに、いまいち気分の弾まない帰り道だった。男だったんだ、このひとも。そう思ったら、やりきれなさでいっぱいだった。
九州の夜を想像したら、ぞっとして鳥肌が立った。明日香は車のなかで、自分の身体を抱きしめていた。
さっきと同じ歌手の曲が流れる。くたびれた。早く帰りたい。
先ほどと同じ楓の街路樹の下で、渡良瀬取締役は車を停めた。
「これ、プレゼントしようと思って。」
取締役は、МDを車から取り出した。
「最近、注目してるフランスのアーティスト。いい声してたでしょ。」
明日香は実物のМDを見るのは初めてだった。結構小さくて薄っぺらい。手書きの小さな文字で、曲名がびっしり書かれていた。
渡良瀬取締役は、老眼鏡を掛けながら、フランス語の文字をひとつひとつ書き込んでくれたのだろうか。
だけど明日香は、МDを聴く機械なんて持ってない。もうとっくの昔に絶滅したと思っていたМD。
手渡した取締役の目に、さっきまでの大人然とした余裕は微塵もなくて、切なく、不安げに揺れる少年のような光があった。
その瞳のままほほ笑むと、車を降りて、外から助手席のドアを開けた。
ああ、このひとはこの瞬間、本当に私に恋をしているんだ。
明日香は切なくてたまらなくなった。本気で恋する瞳を見たのは、何年ぶりだろう。
だけど、応えるなんて無理だよ。たとえ九州一泊だって、絶対やだよ。明日香にとって取締役は、あくまで年老いた男なのだ。
「ご馳走さまでした。おやすみなさい。」
「おやすみ。また明日、会社でね。」
ひとり歩道を歩きながら、明日香は思った。あのひとは、本気の恋心をくれたけど、自分の持っているものをなにひとつ手放す気はないのだと。
地位、名誉、財産、家族……。
明日香の身体など、売りに出してもそう高い値はつかないだろう。
この資本主義経済の上に乗せてしまえば、今夜の食事代より、安いくらいなのかもしれない。
だけど明日香が明日香であるために、決して、一度たりとも、手放してはならぬものだ。
豪華な食事も、降り立ったことのない九州の旅も、手間暇かけたプレゼントもいらないの。
私と共に生きるかもしれない覚悟が、結果はどうなろうとも、その可能性も視野にないなら、本気で恋する眼差しすらいらないの。
そう思いながら、明日香は歩いた。
「愛されたい」はわがままだろうか。だったらせめて、「愛したい」。
誰の顔も、思い浮かんでは来なかった。切ない夜だ、今夜は。秋の訪れを告げる虫が、まだ賑やかに奏でていた。
〈おしまい〉
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