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【短編小説】のばらの犯した罪とつぐない(1/2)

 貧しき者は、金さえあればすべてがうまくいくと思っている。
 少し小金を持つと、金だけでは解決できないことがいっぱいあるのだと思うようになる。
 うんとお金を持つと、本当に金がすべてを解決してくれるようになる。
 もしくは、その幻想に果てしなく近づく。

 雪咲のばらは、うんとお金を持っている人間である。
 貧しい幼少期から必死に勉強して経営学を身に着け、五十五歳になるいまでは、スキンケアブランドとコスメブランド、エステティックサロンを二十店舗ももつ経営者だ。

 のばらはロシアの女帝、エカテリーナ二世のような人生を送りたいと願っている。
 ドイツの田舎貴族から強大なロシア帝国に嫁ぎ、無能な夫をギロチンに掛けて、帝国の領土を最大にした女帝。
 晩年はイケメンで若い五人の従兄弟たちを要職に就け、ボーイフレンドとしてかしずかせた。
 そんな人生。

 因みに「雪咲のばら」というのは本名ではない。
 名刺にも「雪咲のばら」と印刷しているが、実は通称である。
 持って生まれた名前は、地味で古臭くて貧乏ったらしいので捨て置いた。

 のばらの本名を知っている人間は数少ない。そのひとりが、執事である小松原である。
 よわい八十を超える老人だが、誰よりものばらに寄り添い、のばらの身を案じている。
 整形を重ねたのばらの元々の顔を知っているのは、彼ひとりだ。
 決して性格がいいとは言えないのばらだが、彼女が本音を漏らせる人間は小松原ただひとりである。
 どこに行くにも、のばらは彼を連れて行った。

 年が改まって一か月を過ぎたこの日、のばらは都心から二時間ほどの別荘地に車を走らせていた。
 数ある所有車のなかから、紫色の国産高級車を選んだ。
 この数日を休暇と決めて、若くてイケメンの男の子たちと、フレンチのシェフ、和食の料理人、バーテンダーを呼び寄せ、狂喜乱舞のお祭りパーティーを催そうと思っている。
 家政婦たちは前乗りで行って、すでに部屋の隅々まで掃除し、ベッドメイキングをしてくれているはずである。

 こんなことにも小松原は同席する。
 のばらの運転する車の助手席に収まっている。
 雪でも降ってきそうな空だ。
 冬枯れの田舎道は、人気もなくて寒々しい。
 それでものばらは冬が好きだ。
 頭のてっぺんからつま先まで、神経が鋭敏に行き届くような感じがする。
 点在する小さな町をすり抜けながら、のばらは走る。
 楽しいパーティーが待ち受けている。
 鼻歌を歌いながら運転する。
 気分がいいせいか、ハンドルさばきが雑である。

 一瞬の油断が、人生のすべてを奪う。
 のばらは道にたぬきが飛び出してきたのに気づくのが遅れ、慌てて大きくハンドルを切る。
 車は左に曲がりすぎ、空き家の塀をぶち抜いて止まった。

 しばらく、なんの音も聞こえなくなった。

 血まみれになったのばらの身体から、幽体が起き上がった。
「死んだわよね?! 私たち」
 同じく幽体になった小松原が起き上がる。
「ええ、死にましたね」
 のばらは怒り心頭といった感じで叫んだ。
「ったく、どうしてくれるのよ! これから楽しいバカンスの予定だったのに!」
「お言葉ですが、これはのばら様の失態かと」
 小松原は静かに指摘する。
「あなたはいいわよね。どうせそんなに先が長くなかったんだから。私はどうなるのよ。私のエカテリーナ人生はどうなるのよ! この先、やりたいことがたくさんあったのに!」
 のばらは悔しさのあまり、我を忘れている。
「わたくしも、畳の上で死にとうございました」
 小松原の言葉に、のばらはやっと申し訳ないと思った。
「ごめんね……小松原。巻き込んじゃって」
 小さな声で謝る。のばらが謝ることなどめったにない。
「いえ……。しかし、もっと重要な問題があります。巻き込まれた者がもうひとりおります」
「『もうひとり』? たぬきじゃなくて?」
「いえ、人間です。お気づきになりませんでしたか? わたくしたちはひとをひき殺してしまいました」
 幽体ののばらたちが、車を降りて前に行ってみると、塀のなかに二十代後半くらいの女が倒れていた。
 のばらの車に当たって飛ばされたのだろう。
 女は後頭部から流れ出た血で血まみれで、脚がおかしな方向に曲がっていた。

「死んでるわね……」
「死んでますね」
 のばらは途方に暮れた。
「どうするのよ……。人生の最期の最期に、ひと殺しちゃったじゃない……」
「謝罪したいところですね。でも、変ですね。この女の幽体がありません」
 いつのまにか空が暗くなっていた。
 夕暮れまではまだ随分と時間があるはずなのに。
 暗くなった空から、白いなにかが揺れるように舞い降りてきた。
 のばらが手を伸ばすと、それが取れた。
 和紙のような柔らかい紙。
 その紙に、筆でなにか書いてある。

「『生きたいですか?』」
 のばらは読み上げると
「そりゃ生きたいわよ……」
 とつぶやく。紙はどんどん降って来る。
『どうしても生きたいですか?』
『あなたのいま持っているものを、すべて捨てても?』
『たとえ一か月しか生きられないとしても?』
 のばらは紙を拾いきれなくなった。
 紙は地面に落ちる寸前に、闇に溶けるように消えてゆく。
 のばらは地面にひざまずき、空に向かって叫んだ。
「生きたいわよ! 生きたいって言ってるじゃないの!」

 落ちてくる紙は止み、しばらく間を置いてから、赤い紙が落ちてきた。

『では、私の人生をあげましょう』

 みるみるうちに、女の身体は修復されてゆき、おびただしい血液も身体に吸い込まれ、脚も元通りまっすぐになった。
 女がぱっと目を見開く。小松原にはすぐにわかった。
「のばら様!」
 幽体のままの小松原は、横たわった女に、いや、のばらの魂の入った女に駆け寄る。
 女はむくっと起き上がって
「若い身体っていいわねえ!」
 と言って目を輝かせた。
「のばら様……」
 小松原はのばらの腕をさすりながら、むせび泣く。

「さあ! タクシー呼びつけて、パーティーに行くわよ!」
 のばらは言ったが、小松原は
「恐れながら、それは無理かと思われます……」
 と答えた。
「のばら様は、見た目がすっかり変わってしまわれた。のばら様が本人だと言っても、納得する者はおりますまい。別荘の敷地に入ることすらできないでしょう」
 のばらは案外あっさり納得した。
「それもそうねえ。あなたもすっかり幽霊になっちゃったしね。向こうが透けて見えるわよ、小松原」
「は、はあ。お恥ずかしい限りで……」
「じゃあ、仕方ない。この女の家にでも行くか」
 のばらは女の所持品を漁る。
キルトのトートバッグのなかに財布を見つける。
「この女、二千円しか持ってないわよ?! クレジットカードもない! ええっと、免許証は―――あった!」
 二人して、免許証をのぞき込む。
「宇野佳代。宇野佳代っていうのね、この女。なんていうか、ぼやっとした名前ねえ。もっとパンチのある名前、なかったのかしら」
 のばらは何事も刺激多めがお好みなのだ。
「そんなことはおっしゃらず。きょうからは、のばら様が宇野佳代として生きていくのですから」
 小松原がたしなめると
「私のこと、のばら様って呼ばなかったらぶっ殺すからね」
 とのばらは言った。
小松原は、どのみち死んでいるしとは思ったものの、もちろんなにも言わなかった。
「小松原。私の財布取って。車のなかにあるから。百万くらいは入ってるし、クレジットカードもあるから、当面なんとかなるでしょう」
 のばらの言葉に、小松原は言いにくそうに
「あの、わたくしは幽体でございます。さきほど車の壁をすり抜けて出てこられたということは、わたくしは物を掴めないのではないかと思うのですが……」
 と言った。のばらは
「なに? 私に取れって言ってるの? ほんとうに役に立たない幽霊ね」
 と怒り気味だ。
 しかし、のばらにも財布を取ることはできなかった。
ぐしゃぐしゃになってしまったドアは、どう引っ張っても開かないのだ。
粉々になった窓ガラスをブロック塀のかけらで割ってはみたものの、狭いうえに、バッグもどこにあるのかわからなくなってしまっていて、どうにもならないのだ。
「どうするのよ! お金がなかったら、一体どうしたらいいって言うの?!」
「のばら様……」
 自分が幽体になっても、のばらの身を案ずるのが小松原なのだ。
 のばらは、はっと気づいたように空を見上げた。
雪でも降りそうな、厚い雲に覆われた空。
その暗さに目を凝らした。

「『あなたのいま持っているものを、すべて捨てても?』……『たとえ一か月しか生きられないとしても?』……」
 のばらは呟いた。
「のばら様?」
「空から降ってきた紙にね。書いてあったのよ」
 のばらは空を見上げたまま、静かに言った。
「私の持ってるものをすべて捨てても、一か月しか生きられなくても、それでも生きたいって、私、願ってしまったのよ」
 小松原は黙っていた。
 のばらの運命は過酷だったが、ひとひとりの命を犠牲にしたのだ、恨むことはできないだろう。
 そして、のばらだってそれをわかっているから、黙っているのだ。
 小松原はそう思った。

「一か月。一か月かあ。短いわね……。宇野佳代として人生逆転したかったけど、そんな時間はないみたいね……。ほんとに一か月で終わるとしたら、だけどね」
「のばら様はこれまで持っていたものを、すべて失ってしまわれた。一か月しか生きられないという予言も、軽視はできないでしょう。残念なことですが」
 ふたりは免許証の住所を宇野佳代のスマホで確認し、事故現場から徒歩十分のおんぼろアパートにたどり着いた。

「一〇三。ここですね、のばら様」
 玄関のドアはずいぶんとくたびれて見える。
のばらは不平のひとつも言いたいところだったが
「アパートの鍵。宇野佳代の荷物が無傷でよかったわね」
 と静かに言って、恐る恐る鍵を鍵穴に差し込んだ。
ゆっくり回すと、がちゃりという大きめの音がして、鍵が開いた。
 ついさっき死んだばかりの女の部屋。
 この部屋に主が帰って来ることは二度とない。
 電気が消えた薄暗い部屋は、とてもきれいに整えられていて、より一層寂しさを誘った。
 四畳半一間といったところだろうか。

「この部屋、お風呂もトイレもないわよ? どういうこと?」
 そこで小松原がドアをすり抜け、偵察に行った。帰ってきて言うには
「トイレもお風呂も共同のようですね」
 とのことで、のばらは思わず悲鳴を上げた。
「共同?! いやよ! そんなの、使えないわよ」
「使うしかありません。ちなみに週に一回ずつトイレとお風呂の掃除当番が巡ってきます。それから、お風呂は一回使用するたびに二百円支払うことになっているみたいですね」
 のばらは畳の床に崩れ落ちた。
「いやよ、そんなの……。誰だかわかんないひとと共同で、お風呂やトイレを使うのもいやだし、私、掃除なんてしないから!」
「やって差し上げたいのはやまやまですが、わたくしは幽体でございますのでできないのです。のばら様がやるしかありません」

 のばらがいままさに絶叫せんとしたとき、玄関のドアをどんどんと叩く者がいた。のばらと小松原は震え上がる。


〈つづく〉

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