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【長編小説】やがて動き出す、その前夜 第五話 扶美子の乱
夕食の食卓で、父が食べ終わって箸を置くやいなや、扶美子は言ったのだ。
「お父さん、お話があります。」
と。
いつもへらへらしている扶美子がいやに真面目な声を出したので、百合子はなんだか胸騒ぎがした。なにかが起ころうとしている。扶美子が真面目だなんて、明らかにおかしいもの。
母の顔を覗き見たが、視線を下げて落ち着いている。これから語られる扶美子の話を、知っているのだ。またや。またうちだけのけ者やんか。百合子は思った。
扶美子は速やかに席を立って、ささっと父の横に正座して、軽く床に手をついた。父はとても驚いた顔をしていたが、
「なんや。言うてみ。」
と言った声は落ち着いていた。そのくらいの度胸がないと、社長業など務まらないのだ。
「扶美子は高校を卒業してから銀行にお勤めし、贅沢もせんと、遊びもせんと、一生懸命働いてまいりました。」
扶美子は言う。
「なんや、まどろっこしい。結論から言え。」
父は眉をひそめる。
「必死で働いてきましたが、お金がどうしても足らんのです。」
「なんや。金の無心か? なんでや。言うてみ。」
「扶美子は、ハワイの大学に論文を送っておりました。この度、合格通知を受け取ったのです。」
扶美子が言うと、母がささっと厚めの紙を両手で捧げるように父に渡す。受け取った父は、紙を見つめて眉を寄せて、次には老眼鏡を掛けてもう一度見つめた。
「全部英語やないか! 読めるか、こんなもん!」
父は母に突っ返した。
「合格した、って、書いてあるそうですよ。」
母は落ち着き払って言う。
百合子はひとり動揺していた。ハワイ……。いつか言うてた、この子。ハワイに行きたいって、言うてたわ。冗談やなかったんや。
ずっとずっと、誰にも言わんと胸に秘めて、着々と動いてたんやわ。へらへらしているようで、しっかりもんやったんやわ。
己の能天気を、百合子は恥じた。まるで欲しいものが天から降って来るかのように、悠長にしていた。
扶美子に比べて、なんと呑気な。現実に不満を抱く資格なんて、うちにはなかったんやわ。
扶美子は父に似ている、と百合子は思った。夢を現実に変える力をもったひと。ゼロから一を作ることのできるひと。
父は落ち着いて
「一応、訊こう。一体いくら足らんのや。」
と問うた。
「八百万ほどです。」
扶美子の答えに、百合子は驚愕してしまった。
父もさすがに驚いて
「八百……?! あほ抜かせ! 出せるか、そんなもん!」
と怒鳴った。
母は落ち着き払って
「出せますでしょ。この家の経済状況では、そのくらい出してもびくともしないはずですやろ。可愛い娘の唯一の願いを聴いてやらはりませんの?」
と言う。
「お父さん、アメリカドルは高いさかい、どうしてもそれだけ必要なのです。どうか。」
と扶美子は深々と頭を下げた。
父はため息をつくと
「ええか? 扶美子。金の問題だけちゃうねん。ハワイの大学に合格したのは立派や。でもその歳から外国行ってもうて、どないすんねん。帰ってきたら行き遅れや。男は若い女子が好きやねん。年増の女も、学のある女も、男からは好かれへん。ハワイは楽しいかしらんけど、そのあと一体どうすんねん。」
と言った。
母は口元に薄笑いを浮かべ
「そうでしょうね。お父さんは若いべっぴんさんが、なによりお好きですものね。」
などと意味深なことを言う。
「なんや。言いたいことははっきり言わんか!」
父が母に向かって怒鳴る。
「専務の増岡さんから伺いました。本社に大層綺麗な娘さんをお連れになったそうで。散々会社中、見せびらかして歩いて。みなさん、なにもご存じないですからね。そのお嬢さんのことを『奥様、奥様』言うて。増岡さんはうちのことを知ってはるから、こっそり連絡をくれはりました。ほんまべっぴんさんで。岡山から出てらして、行くとこもなんもなかったそうじゃないですか。うちが直接話をして、宿代を一泊分差し上げて。どうか故郷にお帰りくださいと、お願いしたんですよ。駅にいらしたのを、あなたが声をお掛けになったそうじゃありませんか。」
百合子は仰天したが、父もさすがに驚いているようだった。
「せやったんか……。せやさかい、あの子……。」
切なそうな顔をしている。扶美子と母の怒号が飛ぶ。
「お父さん?!」
「お父さん!」
「お父さんは若い女子が好きか知りませんけどね! 恥ずかしないんですか? そんなことしはって!」
扶美子が糾弾する。それを見て百合子は、ああこれもまた、筋書き通りの展開なんや、と理解した。またや。またうちだけ知らんかった。
もはや、ハワイの大学はどこへやら。完全に話は脱線してしまっている。傍観者である百合子だけが、そのことをわかっている。女の浅知恵、話のすり替え。
しかし、気づいているのは百合子だけのようだ。父は明らかにダメージを食らっている。だったらそれもありかもしれん。扶美子の望みが叶うんやったら。
「お姉ちゃん? まるで知らんひとみたいな顔してはるけど、あんたも大概やで!」
扶美子の怒号が、百合子に向けられた。え? なんでうちが? ほんまになんも知らんかったし、うちはなんも関係ないやんか。扶美子はみんな敵に回す気なん?
「え。うち、なんかしたん?」
びくびくしながら、間抜けな答えを返す。
「お姉ちゃん。うちに隠れて、高級な天ぷらやさんに連れてもうたらしいやないですか。高級なお寿司やさんも、高級なうなぎ屋さんも。お父さんに連れてもうたらしいやないですか。」
扶美子の糾弾に、思い当たることがあったので、百合子は青ざめる。
「何回も、何回もね。」
母はこちらも見ずに淡々と言う。
「ほらみい! あんたはね。べっぴんやからって、ちやほやされて、さんざ美味い汁吸って生きてきたんよ! うちがどんな気持ちでおったか、あんたにはわからんやろね!」
扶美子は怒りながら泣いていた。百合子は悲しくなってしまった。いまのいままで、この子の気持ちも考えんと、ひとりおいしい思いして、それが当然とばっかり思って。
「ご、ごめんなさ……。」
泣きたくないのに涙があふれてきてしまう。
「謝るな! 泣くな! 卑怯もん!」
怒鳴る扶美子の声も揺れていた。
母がぱんぱんと手を打ち鳴らす。
「そこまで。今夜はここまでにしまひょ。お父さん、扶美子のこと、よう考えてやってくださいね。」
父は難しい顔をしたまま、寝室へと上がっていった。女たちは無言で食事の後片付けをする。後味の悪さだけが残る。
だけどきっと、扶美子が決死の覚悟で落とした爆弾は、功を奏することになるだろう。そんな気がした。
(第六話につづく)
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