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【短編小説】夜半(よわ)の雨(1/2)
入院生活の朝は早い。
十月も終わりのこの時期、まだビル間から差し込む朝日が明けの紅に染まる頃合いの六時から、看護師さんがやって来て、広いばかりでなにもない一人部屋のカーテンを開ける。
病室の窓は東に面しているから、一気に部屋中が真っ赤に染まる。
看護師さんは忙しい。なんたってこの時間に、次から次へ、病室から病室へ、カーテンを開けて回らなければならない。
スライドドアを開けて、「おはようございます」と言いながら大股で入ってきたかと思うと、大胆にカーテンを開け、「失礼しました」と大股で去ってゆく。
家に居れば、朝はいつも十一時くらいまで眠っている四ノ宮蒼子には、六時というのは早すぎる。人間の起きる時間じゃないよね、なんて思う。
なんならこれから寝ようか、と思うような時間なのだ、蒼子にとって六時というのは。
それに純粋に時間が早いだけの問題でもないとも思う。
入院生活のタイムスケジュールは、六時起床、六時半にお茶をカップに注いでくれるひとが来て、七時に朝食、十一時半にまたお茶が来て、十二時に昼食、十七時半にお茶が来て、十八時に夕食。二十一時就寝。以上。
あとは適宜、先生がはやてのように現れてはやてのように去って行ったり、看護師さんが熱や血圧などをみにきてくれたり、まあそういうのもないことはないけれど、一言で一日を表現するならば「暇」なのである。
だから余計に、なんで六時に起きなければならないのか、蒼子にはわからぬのだ。もっと寝ていたかったのにい、と恨めしい思いでいっぱいである。
蒼子は暇である。入院して二日後に手術をして、麻酔から醒めて二日ほどは昼夜問わず吐きまくったが、いまはもうぴんしゃんとして元気である。
夜以外はベッドにいることもなくて、こじんまりした居心地のいいソファーに座っているか、病院内を徘徊している。
手術の痕からはドレーンという管が出ていて、余分な血液やリンパ液(廃液という)をプラスチックパックに溜めている。廃液が少なくなったら、ドレーンを外して家に帰れるのだ。
蒼子は常にプラスチックパックを布袋に入れて、袋を首から下げている。廃液の量を計りにきて捨ててくれるのは、蒼子を担当してくれている看護師さんの三人のうちの誰かだ。
四ノ宮蒼子は暇である。一階にある自販機に行って、トマトジュースやカフェオレや、やたらとよく効く乳酸菌飲料を買いだめしてしまうくらいに暇である。
四ノ宮蒼子は暇である。食事のあとの食器を、頼まれもしないのに廊下のキャスターに返しに行ってしまうくらい暇である。
四ノ宮蒼子は暇である。家ではろくにやりもしないのに、SKⅡのオールラインナップで念入りにスキンケアをしてしまうくらいに暇である。
四ノ宮蒼子は暇である。お笑いのラジオを聞きすぎて、スマートフォンのギガが残り少なくなったくらい暇である。
四ノ宮蒼子は暇である。友達にお題をもらって、短編小説を次々と書いてしまうくらいに暇なのだ。
なんならいますぐ、家に帰ったってかまわないんじゃないかしらと思うくらい、蒼子は元気で暇なのだ。こんな元気な入院生活も、もうすぐ三週間。
広々とした個室も、セルリアンブルーの布張りの洒落たソファーも、便利な可動式テーブルも、ありとあらゆる飲み物を詰め込んだ冷蔵庫も、廊下に設置してあるウォーターサーバーも、快適だけどそろそろ飽きた。
ああ家に帰りたい。あの手この手で趣向を凝らして、たくさんの品数を用意してくれている食事だって、プラスチックの器に入っていたのでは味気ない。おいしさ八割減だ。
ボリューム結構あるはずなのに、なんなのだろう、この病院食の満たされない感じは。
この病院で一番おいしいご褒美的な存在と思われる栗のミニケーキも、もう蒼子は三回も食べているのだ。長居しすぎ、ということではないだろうか。
今年は世界的な感染症が流行っているために、入院患者は全員面会謝絶だ。蒼子に限らず誰のところにも、見舞客は訪れない。必要なものの受け渡しがあった場合でも、看護ステーションに届けるだけが精いっぱいだ。
蒼子はそれを、ちょっとラッキーだと思っている。蒼子には、毎日のように見舞いにくるような親身になってくれるひとはいない。寂しいのも(蒼子はあまり寂しいと思っていなかったが)暇なのも、みんな一緒だ。
入院フロアも静かでいい。
朝食(大体はパンとマーガリンとジャムに温野菜のサラダとヨーグルトだったが)が終わってしばらく経つと、掃除のおばさんが現れる。長い柄のブラシを持って現れる。
年の頃は七十前後くらいだろうか、短い髪の細身の女性である。色がすこし浅黒い。この女性とも、もうずいぶん仲良くなった。
彼女がてきぱきと床を掃くのを眺めながら、とりとめのないおしゃべりをする。先週は、デスクワークをやめて掃除の仕事についてから、十キロ痩せたと言っていた。
「前はね、仕事のあとでジムにも通ってたのに、ぜんぜん痩せなかったの」
掃除のおばさんはちゃきちゃきしたしゃべり方をする。
「へえ。じゃあいまはいい仕事ですね。ダイエットもできて、お金ももらえて」
蒼子がそう言うと、おばさんは少し小さな声で
「でも……こういう仕事、若いひとなんかは馬鹿にするじゃない?」
と言った。
「そんなことないですよ。動かないで仕事して、稼いだお金でジムに行くより、ずっとシンプルで素敵じゃないですか」
蒼子自身は身体を動かす仕事ではないけれど、こころの底からそう思う。シンプルで素敵だ、と。
そういう生き方は、尊敬に値する。おばさんは、照れたように笑った。
きょうは
「四ノ宮さんが退院して、また病院でばったり会うことがあったら、そのときは一緒にランチしましょ」
と言ってくれた。そして、大きなみかんを三つもくれた。
そうか、この世代はきっと、この時期になるとみかんを箱買いする世代なのだ、と思いながら受け取った。
蒼子はあまりフルーツが好きではないのだけれど、案外ぺろっとおいしくいただいてしまった。
担当してくれている看護師さんのなかで、一番なかよくなったのはまなちゃんだ。看護師になって三年目、まだ二十四歳だけどすごく頼れる看護師さんだ。
廃液を計りに来たまなちゃんは、蒼子の座っているソファーに座ってきて、蒼子の肩に頭を預けて
「ねえ蒼子さん。蒼子さんの眼って、カラコン?」
と訊いてくる。
「カラコンだよ? なんで?」
蒼子が訊き返すと
「いいなあー」
と言ってしなだれかかってきた。
「私ね、昔カラコンだったんだけど、やめたんだよね。でもまたカラコンに戻したいなあ」
まなちゃんの言う「昔」はつい数年前。彼女が高校生だった頃のはなしである。
まなちゃんには高校時代から付き合っていて、いま現在同棲している彼氏がいる。なんでもその彼氏に、カラコンはやめろよと言われてやめたらしいのである。
「彼ね、お化粧とかも好きじゃないの。自然なままがいいのに、なんでわざわざ化粧なんてするの? って言うから、化粧もできないんだよ?」
蒼子はほほえましいと思いながら
「たまに化粧したとき、綺麗だねって言ってほしいよね」
と答える。
「そうなんだよう」
まなちゃんは、蒼子のテーブルの上にある鏡を覗き込んで溜息をついた。
「でも、飾らないまなちゃんを好きでいてくれてるって、すごく素敵なことじゃない? いい彼氏さんだと思うけど」
「そうなんだよう。いい彼氏なんだけどね」
恋の悩みはいろいろあるけど、まなちゃんのはきっとしあわせな悩みなんだろう。
一方で、近頃、蒼子には気になっている人物がいた。女医の中川先生である。
中川先生は、いつも廊下にヒールの音を響かせて歩く。そんなひとは、スタッフ・患者含め、ほかに誰もいない。
いつもひざ丈のスカートを履いていて、髪は肩上辺りで美しくウエーブし、完璧にメイクを施している。そして声がとても高くて、硬い感じがする。
このひとは傷口の具合を診に、はやてのように現れて、さっと診て、はやてのように去ってゆく。毎日来ることは来るのだが、いつ来るのか予測するのは不可能だ。
蒼子は、このひとにちょっと見下されている感じがするな、と思っていた。それが、あることをきっかけに変わった。
いつものように唐突に、中川先生は現れたのだが、そのとき蒼子は電話の最中で、思いっきりげらげら笑い転げていたのである。
スライドドアを開けて部屋に入ろうとした中川先生を見て、まずいと思って電話を切ろうとしたのだが、それよりも前に中川先生は
「失礼しました」
と言って出て行った。とても慌てた様子で、大いに赤面しながら。
中川先生は、蒼子には笑い転げながら電話する相手などいないと思っていたのだろうか。翌日から中川先生は、ほんの少し丁寧になった。
蒼子は中川先生のことが気になりだした。どう考えても、ひととしておもしろいのである。
(明日に続く)