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【短編小説】微熱の冷めぬ、夏の夜(3/3)

 次にマリがやってきた夜は、うだるような暑さで頭がおかしくなっていた。水を入れた木のたらいに、裸足の足を突っ込んで。

 いつもはお酒なんて飲まないのに、夫の缶のハイボールを勝手に飲んでしまっていた。

「お久~。どう? 進んでる?」

 マリはいつも楽しそうだ。こっちは浮かない気分だっていうのに。

「あれ、お酒飲んでるんだ! 私も~」

 マリはシャンパングラスを傾けて見せた。シャンパンかあ。金持ちなんだね、もうひとりの私は。

「どうしたの? この間言ったこと、気にしてる?」

「別に。気にしてない」
 ぶすっとした声で私は答える。

「あのさ。この前言ったこと、やろうと思うの」
 私が言うと、マリは
「この前言ったこと? なんだっけ」
 と案の定忘れている。

「殺すの。翔太の―――綾子のこと、殺すの。道連れにして。私も―――主人公も死ぬの」

「いいんじゃなあい。わくわくしてきたよ」
 マリはこころから楽しそうだ。

「じゃあ、書くから黙ってて」

「はあい」

 そうして私はパソコンに向かった。

『もうこうする以外に道はないと、俺は覚悟を決めていた。だからずっと綾子の後をつけてきた。そして絶好のチャンスが訪れたのだ。綾子は電車のホームの一番前。俺はその後ろで壁に背を向けている。愛するということの究極形は、共に死ぬことだったのだ。長い間わからなかったから、俺は随分遠回りをしてしまった。
 ほら。電車が来る合図がしている。黄色い線の内側に入るように、駅員が言っている。
 いまだ。僕たちは黄色い線の向こう側に飛ぶんだ。
 俺はホームを突っ走り、後ろから綾子の身体を抱き上げて、飛んだ。
「きゃあ!」という綾子の声を聴いた。声を聴くのも久しぶりだ。身体の温もりも、あの頃と同じシャンプーの匂いも。
 綾子……君を南房総の海でなんて死なせない。君はいまここで、粉々の肉片になって死ぬんだ。俺と一緒に。
 電車の警笛は宙に浮きながら聴いた。けたたましいブレーキの音も。そして、電車は俺たちの上を、俺と抱きしめた綾子の上を―――』

 涙で画面が見えなくなった。手で顔を覆って、声を押し殺して泣いていた。

「だいじょうぶ?」
 マリの声にも返事はできない。

「まあ、つらい作業だったけどさ。泣けたんだから。ずっと泣いてなかったんでしょ。これで熱も冷めるよ。ってか、冷めてもらわないと困るの」

 マリの顔に真剣みが見えたような気がしたけれど、気のせいだろうか。と、思ったそのとき、鏡の向こうでマリを呼ぶ声がした。

「呼ばれてる。私、もう行くね。翔太が待ってるから」

 『翔太が待ってる』?! 驚いた私にマリは言った。

「いい? 真理ちゃんが翔太に振られたのは、真理ちゃんのせいでもほかの女のせいでもないの。真理ちゃんと出会ったときには、翔太はまだ結婚するタイミングじゃなかったってだけのはなし。
 もう何人かつきあってから、落ち着くのはそのあとでいいかなんて、彼は思ってた。
 そこで私の登場。私は真理ちゃんと違ってうかつじゃないから―――」

 瞬間的に鏡に向かってハサミを突き立てていた。こん、と音がして、ハサミは飛んだ。鏡にはまたこちらの暗がりが映し出される。

 ゆるさない。なんでマリなの? 私じゃないの? 翔太と暮らしてるなんて、絶対にゆるさない。今年最高潮に、熱があがっていくのがわかった。


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