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【長編小説】やがて動き出す、その前夜 第三話 銭湯
夕食の片付けをして、百合子は扶美子と銭湯に行った。父と母は、もう少し遅い時間に行く。いつものことだ。
銭湯までは、歩いて二分。ふたりは、着替えやら、石鹸やら、化粧水やら、タオルやらを入れた小さなたらいをめいめい持って、歩いた。
番台でおばさんに料金を払って、「女湯」と書かれた赤い暖簾をくぐる。
髪と身体を洗って、熱めのお湯に入る。百合子と扶美子は、富士山の絵の描かれた一番奥まで入っていって、タオルでまとめた洗い髪を風呂の縁に預け、息をついた。
きょうはお客さんが少なめのようだ。扶美子は、手足の長い肢体を広げて、ぷかぷかと浮かせた。
「やめなさいよ。恥ずかしないん?」
百合子が嗜めると、
「全然。気持ちええよ。お姉ちゃんもやったら?」
と、能天気な返事が返って来る。
色黒で、引き締まった美しい扶美子の手足。百合子は内心、羨ましかった。
百合子は色白ではあるけれど、どう頑張っても、扶美子のような美しい脚にはなれそうにない。
洋服や着物を着ているときにはあまり目立たないけれど、ぽちゃぽちゃとして、筋肉のない自分の手足が嫌いだった。太っているわけではないのだけど、扶美子の手足と比べると見劣りがする。
顔はそっくり同じで双子みたいなのに、なんでこんなに違うんやろ。もっとも扶美子の肌は全体的に浅黒くて、色白の百合子とは対極的なので、間違えようもないのだけど。
風呂を上がって、下着姿のまま、籐でできた椅子に腰かける。首を振る扇風機の風が、ほてった肌に気持ちいい。隣通しにふたり座って、一組しか持ってきていない化粧水と乳液を、百合子と扶美子でやり取りする。
「色白のべっぴんさん」で通っている百合子は丁寧にスキンケアするが、扶美子はいつも適当にささっと済ます。
入念に手入れする百合子を鏡越しに眺めやりながら、扶美子は
「ええですね。お姉ちゃんは色が白うて。」
などと言う。
百合子にしてみれば、扶美子のほうが羨ましいと思うことも多々あるのだが、正直なところ、「べっぴんさん」で通っているのも、ちやほやされるのも、いつも百合子のほうなのだ。
「うちら、周りになんて呼ばれてるか、知ってる?」
扶美子が訊いた。
「なんて呼ばれてるん?」
百合子が訊く。
「黒子ちゃんと白子ちゃん。ネガとポジ。オセロの駒。」
扶美子が面白そうに言う。
「なにそれ。ずいぶんやんか。」
百合子は言ったが、慰めの言葉はもっていない。色が白いことが、いまより珍重された時代なのだ。扶美子は気の毒だ、と思っていると、あっけからんとして扶美子が言う。
「色の白いは七難隠す、っていうさかいね。」
百合子はかちんときた。
「なによそれ。うちが七難隠してるみたいやんか。」
「さあー。どうやろねー。」
扶美子はくすくすと笑ったが、百合子はやっぱり面白くないのだった。
家に帰ると、百合子は二階に上がる急な階段を昇った。
二階には百合子と扶美子の眠る和室があり、和室を挟んで、家の表側には扶美子の書斎が、反対の中庭の上には百合子のアトリエがある。
百合子は、油絵を描くためのアトリエとなる部屋をもっている。とっても小さな部屋だけど、二階にあるその部屋の窓から覗けば、下には猫の額ほどの中庭が見える。
夜の中庭は、風が吹く度に木々がざわめき、その音を聴いているとなんだか落ち着くのだった。
アトリエの小さな部屋には、所狭しと描き終えた作品が立てかけてある。
描きかけの油絵ひとつが、イーゼルの上に置いてある。誰かに頼まれたわけでも、どこかに出すわけでもない油絵。それでも描かずにいられない。
百合子はせわしない日々のなかで、夜、寝るまでの少しばかりの時間を、絵を描くことに当てているのだ。
百合子にとって絵を描くことは、呼吸をすることと同じくらいに大事なことなのだった。
本当は、お風呂に入ったあとでするようなことじゃない。油絵具やテレピン油で、匂いがついてしまうから。でも百合子だって、日常はそれなりに忙しい。夜にしか、絵に向き合えないのが現状なのだった。
きょうのやるべきことが全て終わったから、百合子は安心して、穏やかに筆を取ることができるのだ。裸電球の下で、百合子は描きかけの絵に手を入れる。
いま百合子が描いているのは、夜のなかに佇む、青白いお城の絵なのだった。シンデレラをモチーフにしている。シルエットで王子様とお姫様が手を取り合っているところを、お城の前に描きたい。
子供の頃から絵を習ってきた百合子には、テクニックがあるから、それっぽい感じに描くことはいくらでもできる。でも筆が進まない。
つい、考えてしまうのだ。うちにとっての王子様って、一体どこにおるんやろ、って。
夢見がちな百合子にとって、王子様はあくまで外からやってくるもので、理想をすべて詰め込んだようなひとで、運命的な出会いをして、結ばれて。一生、しあわせに暮らして。
だから既知の男性のなかに、王子様がいるかもしれないとか、そんなことは考えてもみないのだ。
美貌に恵まれた百合子には、それにふさわしい王子様がやってくるはずなのに、気配すら感じない。
一方で、代り映えのしない日常のなかで、時間は無情にも過ぎてゆく。この夏には二十三になってしまう。行き遅れている感じに、どうしようもなく焦ってしまう。
昭和四十年代終わりのこの頃、結婚すること自体はそれほど難しいことではなかった。日本人の九十八パーセントが、結婚、という人生選択をした。
百合子の知っているひとは、全員、結婚という道を選んでいるから、貰い手がない、なんてことは、想像していなかった。
ただ「べっぴんさん」とか「ミス高槻」とか言われて育った百合子には、プライドもあるし、夢見がちだし、誰でもいいというわけにいかないのだ。
売るなら若ければ若いほうがいいに決まっている。だから百合子は焦っているのだ。
描きかけの王子様を、白を混ぜた青い絵の具で消した。
違う、違う、全然思い浮かばへん。この絵が完成したら、本物の王子様に会える気がしてるのに。
いまの日本には、王子様も、西洋風のお城もない。王子様なんていないのかも。百合子は深いため息をついた。
まあ、毎夜毎夜、こんな感じで、自分のことしか考えていないから、百合子は堺家に起ころうとしている変化に、気づくのが遅れるのだ。
ひそやかに、秘めやかに、時代は移り変わろうとしていた。うかつな百合子は、それに気づかない。
(第四話につづく)
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