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【長編小説】やがて動き出す、その前夜 第一話 堺家の台所
堺家の台所は狭い。正確に言えば、縦が狭くて横に長い。そこに女三人、寄り集まって、ばたばたと動き回っているのだから、毎度毎度、食事の支度時は窮屈だ。
母と、年頃のふたりの姉妹、姉の百合子と妹の扶美子。百合子はこの夏、二十三になる。扶美子は秋に二十一になる。ふたりとも、いつお嫁に行ってもおかしくないお年頃。
百合子は着々と準備を始めている。お茶、お花、お琴、着付け。お稽古事に毎日忙しい。肝心の王子様が現れないだけ。
でも……こんな毎日で、どこでええひとに出会えるんやろ。お父さん、見合いでもさせる気やろか。流行りの「恋愛結婚」、憧れやのに。
妹の扶美子には、既に行き遅れ扱いされている。いい気なもんや。あんたもおんなじやんか。年下って、言いたいこと言うて、ほんま気楽やわ。
実際には、百合子の人生と扶美子の人生はだいぶ違う。なんで姉妹の育て方をこんなに違うようにしたのか、百合子にはよくわからない。
家長である、父の言うことは絶対。逆らうことはできないが、わりと気まぐれなひとなので、百合子は度々振り回されてきた。
扶美子のほうはたくましいというかなんというか、うまいこと生きているように、百合子には見えるのだった。
百合子は四年制の美術大学に進学したかったのだが、四年制の大学になんか行ったら嫁の行き手がなくなる、と父が反対し、美術短大に切り替えた。
卒業したら就職したい、と言ったら、就職なんかしたら嫁の行き手が……と同じことを言われ、父の経営する店のひとつ、コロンビアという喫茶店でアルバイトし、子供を教える美術教室でもバイトしている。
まあ、言うことに従ってみたところで、嫁の行き手はやっぱり簡単には見つからないのだ。
扶美子のほうは、高校を卒業して、すぐに銀行に就職した。
なんで百合子は就職したらだめで、扶美子はいいのか、理解できない。淡々と働いている扶美子は特に贅沢をすることもなく、仕事が楽しそうでも辛そうでもなく、なにを考えているのか、百合子にはわからないのだ。
扶美子には、飄々、という言葉がよく似合う。よくわからないけど、なにが起こっても動じないような、余裕があるように見える。
百合子は木の分厚いまな板の上で、菜切り包丁で京菜の漬物を切っている。ざく、ざく、ざく、ざく。なんだか今日は、手に力が入ってしまう。
不意に、端に置かれた黒電話が鳴り出す。
「うち、取るー。」
扶美子は一番近いわけでもないのに、役目を買って出る。台所が狭すぎて、大人がふたりすれ違うのも大変なのに。
「はい、堺でございます。あ、お父さん。はい、はい。わかりましたあ。」
扶美子は電話を切ると、
「お父さん、あと五分で帰るって。」
と厨のふたりに伝えた。
「五分?!」
百合子は目をむく。
「そんなん言われても。なんでお父さんは近頃ぎりぎりなん?」
「お父さん、最近、車買い換えはったさかい、あっちこっち見せびらかしたいのと違う? お店廻って、最後に掛けてきはるんやわ。きっとコロンビアからやで。」
母が言う。
「なにそれ。また車買うたん?! いつ?」
百合子が言うと
「三日前。うち、見たわ。黒塗りでぴっかぴかのやつ。」
と扶美子が口をはさむ。
「お父さんがご自分で稼いだお金で、買うた車です。」
と母はきっぱり言った。
百合子は、また自分だけ知らなかったことがある、と不満だった。見せびらかしたいなら、家族に見せびらかしたらええのに。
「そんなん、経費で落としはるに決まってるやん。」
扶美子はごはんをおひつに移しながら、けたけたと笑う。
「ええやんか。どうせお父さんの会社やねんから。なにがあかんの。」
母は、いつも父の肩をもつ。
百合子たちの父は、大正十五年生まれだ。昭和の時代とともに生きてきた。特に学があるわけでもないが、商売の才覚と度胸があった。
戦後のなんでもありの時代に、喫茶店をひとつ出すと、それがウケて、瞬く間に十五店舗に増やした。レストランも経営し始め、それもいま十店舗。最近、結婚式場までやりだした。
もしも父がひとに使われる人生だったなら、そんなにうまくいかなかっただろうと、百合子は思う。その時代には、自分で商売をするひともたくさんいたので、珍しくはない。ただわらしべ長者みたいに、気づけば規模がどんどん大きくなっていったのだ。
父にはひらめきがあり、度胸があり、なによりもカリスマ性があった。ひとに、逆らえない、とか、着いて行きたい、とか、思わせるなにかがあったのだ。
百合子は急いで、切った京菜をお皿に乗せると、まな板と包丁を洗って片付け、おみおつけに味噌をとく。
母に味付けを任せてもらえるようになってから、まだ二か月ほど。味見はするが、自分の判断だけでは自信がない。
「お母さん、おみおつけの味みて。」
母は魚の焼き加減を見ているところだった。
「ちょっと待って。手が離せへん。」
母が答えると、居間で皿や箸を並べていた扶美子がやってきて、
「うちが味みたるわ。」
と、お玉と小皿を奪う。
「んー。まあ、ええんとちがう?」
と扶美子は言って、にやりと笑ってお玉と小皿を返してきた。なにそれ。適当すぎる。
「ちょっと、お母さん!」
「あかん。百合子、もう時間ないわ。」
母の号令で、三人一斉に割烹着を脱ぐ。さっと畳んで、重ねて置いて、母、百合子、扶美子の順に、廊下を急ぐ。
堺家は台所も狭いが、廊下はもっと狭くて暗い。狭くて、暗くて、長い。右手が全面、天井まで棚になっていて、父のコレクションのウイスキーや日本酒が並ぶ。
もともと家の作りが、間口が狭くて奥に長い、京長屋のような作りなのだ。玄関の上がり口から一歩引いて、三人横並びに並ぶ。
右から母、百合子、扶美子。三人は揃って正座し、軽く手を床について頭を下げ、家主の帰りを待つ。
扶美子の左手には番台があって、壁側の棚に、ずらりとガラス扉に収まった判子が並んでいる。商魂たくましい父は、玄関先すら遊ばせておかない。一応、この家は判子屋なのだ。
もっとも大してお客は来ないし、座って待っている必要もない。ただ、そんな訳で、玄関の鍵は朝から夕方まで開いていた。扉を開けると、ピンポンピンポンと家中にチャイムが鳴り響く。
(第二話につづく)
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