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【短編小説】命ある限り踊り続ける勇気と希望

 さっきまでうっとうしいぐらいに強い日差しが降り注いでいたのに、急に暗い雲が立ち込めてきたから、蒼子は急いで枝豆を茹で上げた。

 今年はもう三十五になるというのに、蒼子は実家に居たきりで、しかも自由気ままに台所も食材も使う。母親に小言を言われていたときもあったが、もう諦めたのか、最近はなにも言われなくなった。

 冷凍庫できんきんに冷やしたグラスとビール、粗塩を振った枝豆とチー鱈をお盆に乗せて、二階の自室に運ぶ。デスクの上にお盆を置くと、自分もデスクに上がり込んで(かつて学習机として使っていたデスクはとても頑丈なのだ)あぐらをかいて窓の外を眺める。

 全開にしてある窓から、むしっとする雨の匂いが入ってくる。窓の桟に飼い猫のあにゃはもうスタンバっている。

「間に合ったね。そろそろ始まるかな」
 蒼子は猫に話しかける。言い終わるや否や、ばらばらばらっと音がして、大粒の雨が降り出した。雨雲は蒼子の見える世界すべてを覆い尽くして、巨大な空に大胆に稲妻を描き、雷鳴を轟かせる。

「フー! かっこいー!」

 チー鱈をしゃぶりながら、蒼子ははしゃぐ。あにゃは目を丸くして、窓の外を注視している。蒼子はまるでショーでも見るように、つまみを用意して、夕立という天空の大スペクタクルを楽しむつもりなのだ。

 母親が蒼子の部屋の前を通りかかった。ドアを開けっぱなしにしていたから、蒼子の様子が丸見えだ。

「なんですか、机の上に座わり込んでお酒なんて呑んで。お行儀の悪い」
 小言をくらってしまった。

「いいじゃない。夕立って最高にテンション上がらない?」
 蒼子の発言に、母は眉をひそめた。

「蒼子、孝之叔父さんの家に遊びに行ったときのこと、忘れたの? 不謹慎ですよ。大水になることだってあるんだから」
 母はそう言って、一瞬なにか言いたげにしたが、結局それ以上なにも言わずに立ち去ってしまった。


 蒼子も覚えている。孝之叔父さんの家に遊びに行ったときのことを。あのとき、蒼子はまだ高校生だったと記憶している。

 急な大雨は二日間降り続き、叔父さんの家は床上浸水をした。蒼子と父と母は、そこで足止めを食らってしまった。階段の上から、暗がりのなか懐中電灯を照らして、一階でぷかぷかと浮き上がる畳を見ていた。

 蒼子はなにかそこで妙な感情を抱いたのだった。例えて言うならば、非常用のエンジンが入るような。どうなるかわからないその場所で、なぜか自分が生きているということを強く感じたのだ。

 大変だったのは雨が上がった後だった。水は引いたのだが、叔父さんの家の辺り一帯は電気がすっかり止まってしまった。うだるような暑さのなかで、冷房もない、冷蔵庫も止まり、氷もみんな溶けてしまうし、自販機もみんな止まってしまって、冷たい飲み物はどこに行っても手に入らなかった。

 食べられるものも限られていたので、うどんやそばなどの乾麺やお菓子ばかり食べていた。その状況のなかで、孝之叔父さんの一家と蒼子の家族は、黙々とめちゃくちゃになってしまった家を片づけた。そこに至っては、蒼子の非常用エンジンは作動しなかったようで、こころからつらいなあと思ったのを覚えている。

 でもそれも、ずいぶん前のはなしなのだ。二十年近い昔になるか。

 蒼子にはわかっている。
お母さんは、本当に言いたいことは言わなかった。

「お、蒼子、ずいぶん早い晩酌だな。お父さんも枝豆食っていいか?」
 父が部屋に入ってきた。どうぞどうぞ、と蒼子は父親に枝豆を勧める。しばらくふたりで、滝のような大雨を見ていた。雨は渦を巻くように、強くなったり弱まったりする。

「思い出すなあ」
 雨を見ながら父は呟いた。そして小さな声で、あのときはヒヤッとしたよ、と言うと、蒼子の肩を叩いて、そのまま部屋から出て行ってしまった。

 蒼子には思い当たることがある。父親がヒヤッとしたという出来事に。母親が敢えて触れなかった出来事に。その出来事は、蒼子のなかではなぜか楽しかった出来事として記憶されている。非常用のエンジン。そうだ。あのときの蒼子は、非常用のエンジンが作動した状態だったんだ。

 二年前の春、蒼子は結構やっかいな病気にかかっていることがわかった。うっかりすると命も落としかねないその病気は、罹患したひとがうつになってしまうこともあるようなものだった。

 ただ、蒼子は違った。病気の治療を始めようというときに、蒼子は非常用のエンジンがトップに入ったのを感じた。死の想念が常に近くにあるその時期に、誰よりも、自分が生きていることを強く感じたのだ。

 「生きたい」でもない、「死にたくない」でもない、ただ、「いま私は生きている」ということを、肌で感じ取ることができたのだ。

 でも非常用のエンジンがかかったのは蒼子だけだったようで、母親はただならぬ緊張感を漂わせるようになったし、陽気だった父親は口数が著しく減ってしまった。家族の食卓はとても息苦しいものに変わった。

 治療を始めて十日ほどで、蒼子の髪は一本残らず抜け落ちた。髪を洗うたびにごっそりと指に絡みつく毛髪は、ホラーじみて怖いほどであった。髪の毛だけでなく、眉毛もまつ毛も鼻毛も、とにかく身体中のすべての毛がなくなった。

「抜け落ちた髪の毛だけでかつらが一個作れそうなんだよ? もったいないよねえ」
とか
「『この薬はよく効きます。ただし、副作用として禿げます』なんてさ。もうおもしろすぎて笑っちゃうよね。なんで誰も笑わないんだろう」
 とか、なんとか場を和まそうと頑張ったのだが、空回りしてばかりのように感じた。

 意識してみると、観ているテレビドラマや流れている歌、そこにもかしこにも死の気配が隠れていて、世の中危険がいっぱいだ、と思わずにはいられなかった。だって蒼子は、気落ちしている両親を励ますことができるのは自分だけだと信じていたから。

 蒼子は派遣の更新をやめることにした。勤め先でも腫物に触るかのような扱いを受けがちだったし、通院日や体調の悪い日は休まなくてはいけなかった。秋には手術が控えていて、何週間も休まなければならなくなることもわかっていた。住む家もあるし、親もいるし、当面働かなくてもなんとかなるだろう、そう思って仕事を辞めた。

 もしも命の限りが案外近くに迫っていたとしても、別段やりたいことなど思いつかなかった。水彩画を描いてみようと思って三日で飽き、エッセイを書こうと思ったけれど苦しくなってやめた。空や草花を写真に撮ろうと思ったけれど、センチメンタルな気分になるのでこれもやめた。

 自分の死後に両親に発見されたくないものはすべて処分し、あとは猫のあにゃと一緒にごろごろして、食べたいものを食べ、たくさん昼寝をした。

 先のことなど考えても仕方がない、と蒼子は思った。ただ、どうやら結婚は一生できなさそうだ、これはほぼ決定事項だろうと思った。蒼子がこの先子供を産める確率は、ほとんどゼロに近かった。

 子供が産めなくても結婚するひとはするんだろうけど、実家の居心地がよすぎて、そこまで強い結婚願望があるわけでもない。

「それでもねえ、恋はいろいろしましたよ。いい思いだってたくさんしたんですよ」
 蒼子はあにゃの頭を撫でながら話しかけた。あにゃはごろごろと喉を鳴らしてすり寄ってくる。

 六か月に及ぶ点滴治療は、最初の三か月は三週間に一回、後の三か月は一週間に一回、通いで行われた。後半の点滴は落としきるまでに二時間以上かかる。

 その頃には、世界はすっかり夏になっていた。点滴が終わると、蒼子は徒歩で家に帰る。時間は夕方だが、外はまだ明るい。蒼子は油断していた。傘を持たずに来たのに、帰り道急にぱらぱらと雨が降り出した。

「夕立だ。やんなっちゃうなあ。ウィッグが濡れちゃうよ」
 蒼子は頭を押さえて小走りに走りだした。

 ふいに誰かに腕を掴まれる。見ると、水色のスーツに身を包んだ若い男のひとだった。色素の薄い肌と髪、吸い込まれそうな瞳。楽し気に微笑んだ口元。そのひとは開いた傘を蒼子の左手に握らせ
「行こう」
と言って、右手を取って駆けだした。蒼子はなんだか楽しくなって、その男のひとに導かれるままについていった。

 スクランブル交差点の真ん中で、そのひとは立ち止まった。蒼子から手を放すと、蒼子の正面に立ってタップを踏み始める。雨に濡れたアスファルトの水を弾いて彼は軽やかに踊る。

 ぱちゃちゃん、ぱちゃちゃん、ぱちゃちゃんちゃん。

 君も、というように彼は両手を広げほほ笑んだ。蒼子は戸惑う。すると、交差点を歩いていたひとが急に振り向いて、傘を片手に踊り出した。

 ぱちゃちゃん、ぱちゃちゃん、ぱちゃちゃんちゃん。

 あのひとも、このひとも。蒼子の周りにいるひとたちがみな、こちらを振り向いて満面の笑みで踊りだす。楽し気に踊っているひとたちは大きな輪を作って、そのなかに蒼子とさきほどの男のひとがいる。蒼子はすっかり楽しくなってしまった。

 周囲を取り囲むひとたちは、傘を使って息の合った美しいダンスを披露していく。色とりどりの傘が舞う。なんて素敵なんだろう。まるで夢みたいだ、と蒼子は思った。

「どこまでもゆける。どこまでもゆける。どこまでだってゆける」

 人々は歌っていた。蒼子は男のひとを見た。彼は、さあ、というように手を延べた。もう踊るしかない。どこまでもゆける。どこまでもゆける。私はどこまでだってゆけるんだ。蒼子は踊り出した。男のひとの優し気な瞳を見つめながら。

 ぱちゃちゃん、ぱちゃちゃん、ぱちゃちゃんちゃん。ぱちゃちゃん、ぱちゃちゃん、ぱちゃちゃんちゃん。

 男のひとは蒼子の手を取った。ふたりのダンスが始まる。なんの練習もしていないのに、息ぴったりに踊れることが嬉しかった。見つめ合い、くるりと周り、手を広げて。こんなに楽しいことがあるだろうか。胸がときめく、こころが弾む。ふたりで決めのポーズを取ると、 周囲からわあっと歓声が上がり、拍手が巻き起こった。

 蒼子の周囲が光を放っているように感じられた。拍手はだんだんと遠くなり、まるで雨音のようになり、蒼子はその場に静かに崩れ落ちた。濡れた地面に横たわって、そしてやがてなんの音も聞こえなくなった。

…………………

 当時その場に居合わせたひとによると、蒼子は雨のなかでいきなり倒れたのだという。そのひとが救急車を呼んでくれて、大事に至らずに済んだ。病院のベッドで目覚めたときの、父と母の顔は忘れられない。母は涙をこぼさんばかりであった。

「無茶をして」
 母は蒼子を抱きしめた。ああ夢だったのかと思った。楽しい夢だったな。すごくしあわせだったな、と思った。

 それから一年半が経ち、蒼子はいま元気である。枝豆を食べながら、ビールを飲みながら、夕立を鑑賞することができるくらい元気になった。髪も伸びて、肩につくぐらいの長さにしている。

 髪質が変わって、ストレートだった蒼子の髪はゆるい天然パーマになった。あの頃にあった非常用のエンジンは、とっくにかからなくなっていた。蒼子はゆるゆると日常を楽しんでいる。その世界に死の気配はもはやない。

 雨足が弱まり、雲の切れ間から光が差し込んできた。
「ショーはもう終わりですかね」
 蒼子はあにゃに話しかけた。あにゃは大きなあくびをすると、窓の桟から降りてどこかに行ってしまった。蒼子はのんびり枝豆をつまみ、ビールを飲みほした。

《了》

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