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【長編小説】やがて動き出す、その前夜 第七話(最終話) やがて、来る運命

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 宮崎正守まさもりが大阪に転勤になってから、もうすぐ半年になろうとしていた。もっとも、二年間の期間限定。東京に戻れることは決まっている。
 正守の会社では、三十前後で一度転勤を経験するのは、当たり前のことだった。ステップアップするために、必要な儀式なのだ。
 同期のやつらは、ペルー支社に転勤になっている。正守は母一人子一人なことと、未だ独身であることが考慮され、国内転勤が叶ったのだから、恵まれているほうだ。

 正守の勤める大阪支社は、高槻という街にある。
 不思議な街だと、いつも思う。東京のように、思わず臆してしまうような都会感はないのに、とにかく便利な街なのだ。正守は田舎育ちだから、歩いて行って用が足りてしまうこの街が、珍しく。若い女性社員たちが話す関西弁も、可愛らしくて新鮮だった。

 ある日、給湯室を覗いたら、女性社員たちがお客様にお出しするお菓子の買い出しの相談をしていたので、正守は迷わず
「俺が行ってくるよ。お店の場所を教えて?」
 と言った。女性社員は驚いて
「そんな。宮崎主任がなさるようなお仕事ちゃいますよ。誰か女の子行かせますから。」
 と言った。

「構わないよ。仕事もちょうどひと段落ついたし、この街のことももっと知りたいから。」
 正守は言った。
「そうですかあ? なんか申し訳ないです。そしたら、いま地図を描きますさかい、田辺屋さんっていう和菓子やさんで、夏籠りっていうお菓子、買うてきてもらえますか?」
「田辺屋さんで、夏籠り、ね。了解。」

 女性社員は地図を描きながら
「できたら、うちたちの分も……。」
 と上目遣いに正守を見る。こんな女の子たちは、故郷にも東京にもいなかったな。苦笑しながら、わかった、買ってくるよ、と約束した。女の子たちは弾けそうな笑顔と歓声で喜んだ。

 外に出ると、まだ午前中にも関わらず、太陽がぎらぎらと輝いていた。歩きながら暑くなってきて、上着を脱ぐ。

 田辺屋さんの近くまで来て、横断歩道を渡ろうとしたときに、向こうから静々と歩いてくる着物姿の若い女性に目が留まった。
 あれは、コロンビアの百合ちゃんじゃないか? 着物姿で見違えてしまうけど、やっぱり百合ちゃんだ、間違いない。

 百合ちゃんは、前を見つめ、風呂敷包みを抱えて歩いてくる。微笑みが口元に浮かんでいる。正守は勝手に、運命的だと思った。
 百合ちゃんに会いたいが故に、コロンビアで毎日食事をしているのだ。いいところを見せたいから、同席した社員たちの食事代まで奢ってしまう。

 あまり社交的ではない正守だったが、百合ちゃんには頑張って声を掛けていた。ふたりとも絵が好きなことまでわかって、彼女にかなり惚れこんでいた。
 そんな百合ちゃんと、お店の外で偶然会えた。すれ違うとき、なんて声を掛けよう。気持ちはすっかり浮足立っていた。

 長い横断歩道の上を、微笑みを浮かべた百合ちゃんが近づいてくる。正守はそちらの方向に歩いてゆく。
 声を掛けられるほどに近づいたとき、正守は呆然としてしまった。百合ちゃんの視界には、正守がまるで映っていないように見えたのだ。

 着物姿の百合ちゃんは、すっと正守の横を通り過ぎる。あまりのことに、びっくりしてしまって、声も掛けられずにただ茫然と立ち尽くす。彼女の後姿を見つめている。遠ざかっていく後ろ姿。

 まさか! 俺のことを覚えていないのだろうか。俺はただのコロンビアの客のひとりでしかないのか? あんなに絵の話をしたのに? ゴッホやクリムトや、ゴーギャンが京都に来たら、一緒に見に行きましょうね、とまで言っていたのに?

 信号機のとうりゃんせの音楽が止み、百合ちゃんは小走りに向こうに行ってしまったけれど、正守は後ろ姿を見つめたまま、その場を動けない。

 信号は完全に赤に変わってしまったようだった。流れ出した車が正守の手前に停まり、開け放った窓から男が顔を出して、
「死にたいんか! ぼけえ!」
 と怒鳴る。正守は我に返り、運転手に頭を下げると急いで横断歩道を渡り切った。

 悔しい! 覚えてもいないなんて! 一体どうなっているんだ、あのひとは。
 お愛想なんて通用しないぞ。俺は絶対に絶対に、百合ちゃんと美術館に行く。なるべく早く、美術館の情報を調べよう。
 正守は固く決意した。

 そして、老舗の和菓子や、田辺屋さんに入っていく。田辺屋の向かいは判子やさん。
 近い未来に、子供たちを連れてその家に毎年暮れに訪れ、正月を過ごすことになることなど、いまの正守には知る由もない。

 判子屋の軒先の風鈴が、ちりんと軽やかな音を立てた。

 やがて動き出す、その前夜。

〈おしまい〉

 近々取り壊しの決まったあの家と、かつてそこで暮らした家族たちに捧ぐ。


お読みいただきありがとうございました!

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