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【小説】園子シリーズ『中川園子の憂鬱』(2/5)

 しまうま女は、結局、院長先生について、手術と抗がん剤治療をすることに決めたようだった。

 もっとも抗がん剤自体は、化学療法医がやることになっている。化学療法の宮野先生は、イケメンで優しい。それゆえ抗がん剤治療をがんばれる患者も多い。

 それもみな、岩手から宮野先生を引っ張ってきた、院長の手腕なのだ。きっと宮野先生にも、イケメン手当が払われているに違いない。

 例によって院食で、院長先生に声を掛けられた。内容は、あのしまうま女を黙らせた謝辞と、お礼に一席設けたいというものだった。

「中川先生、ほんとにがんばってくれましたからね。ふぐしゃぶなんてどうですか。落ち着くいいお店を知ってるんだけど」

 院長は言った。もちろん園子に断る権利などない。それに、ほんとを言えば、ふぐは大好物だ。院長と、というのは少し残念だが、お礼というからには奢ってもらえるのだろう。

 園子は言われた日時に、言われた店に向かった。明日は仕事が休みという金曜日。案外近い店だったので、歩いて向かった。

 風が枯れ葉を道の隅にくるくると巻いている。細すぎるほど細い月が出ている。もう冬本番だな。そんなことを思いながら歩いた。

 店に着いて、木の格子戸を開けると名前を告げる。お連れ様はもうお待ちですよ、と案内される。畳敷きに掘りごたつの個室で、院長が待っていた。

「お待たせしてしまって」
 園子が言いながら靴を脱いであがると
「いえいえ。中川先生、お仕事お疲れ様でした」
 と、院長は先に日本酒をやっていた。

 ささ、とおちょこを渡され、熱燗を注がれる。園子が来るのを待っていたように、いや実際待っていたのだろうが、料理が運ばれてくる。

「火を着けますね」

 店員の女性が鍋の火を着ける。園子の元に三つに分かれたお通しが着て、ふぐしゃぶの入れ物が積み重なり、ふぐの天ぷらや、ふぐのお寿司、お刺身、どれも美味しそうだ。

「じゃあ、いただこうか」

 店員が行ってしまうと、院長は菜箸でふぐをしゃぶしゃぶし始めた。園子もそれに倣う。紅葉おろしの効いたポン酢だしで食べると、柔らかくて甘い身が口のなかに広がる。

「どうだい?」
「美味しいです」

 感じた美味しさはそんなものではないのに、園子はうまく伝えられない。不器用、コミュニケーション障害、やっぱりそれなのかなと思ってしまう。仕事のときは、感じたことがないのに。饒舌な院長には覚えのない悩みであろう。

 しばらく食事を堪能したのちに、院長は口を開いた。
「きょう、中川先生に来ていただいたのは、もちろんお礼もあるんだけど、それ以外にね。中川さんの気持ちを訊いて置きたかったものだから」

「私の気持ち?」
 院長は、くいっと一杯やると
「中川さんは、四十六歳だっけ。いいひとはいるのかしらと思って」
 と言う。

 園子は途端に顔から火が出そうになるくらい熱くなった。こんな私にいいひとがいるわけがないじゃない。男のひととまともに口も利けないのに。

 スタッフルームでの居心地の悪さが思い出される。園子が口を利くと、空気が止まる。あるいは逃げてゆく。そんなことぐらい、訊かなくたってわかってるでしょうに。

「その顔だといないみたいだね。中川さん、家庭をもつというのもいいものだよ。いざというときに頼りになるひとはいたほうがいい。男女、お互いにね」

 そりゃそうでしょうよ! でもそれは恵まれたひとにしか、許されないことですよね! と、言いたかったが、もちろん口には出さない。

「いいひとがいればいいんですけどね」
 これは園子がその話題から逃げるときの台詞だ。だが、その日の展開は違った。

「いるんだよね。よさそうなひとがね」
 院長はにっこり笑うと、ビジネスバッグからあるものを出した。

 これは、あれだ! 縁談というやつだ! 園子は耐え難いくらい、居心地が悪くなった。

(明日に続く)

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