【小説】園子シリーズ『中川園子の憂鬱』(1/5)
ちょっと厄介な患者がいるんだけど、君、頼まれてくれないか。と院長先生に言われたのは、社食ならぬ院食で、コーヒーを飲んでいるときだった。
中川園子は消化器科の女医で、四十六歳独身。院長も同じ消化器科医で、消化器科医は二人だけなので、相談は直接園子にやって来る。
なるほど、院食ならば患者やその家族に聞かれることもない。院長が如才ないのはいつものことだ。
「どういう患者ですか?」
園子は訊いた。どの道、断る権利は園子にはない。
「オペのあとで抗がん剤、っていう予定なんだけどね。抗がん剤じゃなくて放射線治療にしたいって、だから手術もしたくないし、担当医を替えてくれって聞かないんだよ。
『抗がん剤をやるくらいだったら死んだほうがまし』って誰かから吹き込まれたらしくて。埒が明かないから、ちょっとびびらせてやって欲しいんだよ」
ふん、と園子は鼻で笑った。素人のくせに、生意気な。
「わかりました。私がなんとかします。次の来院はいつですか?」
院長に言われたことは、なにがなんでも園子が解決する。そういうようにできていた。
小田という院長は、当たりはソフトでなよなよして京男のようだが、本当はとっても怖いひとだ。新人の看護師ですらも、そのことはよくわきまえている。逆らえばどんな処分が下るかわからない。
医者としては二流、三流でも、経営者としては辣腕で、この病院の前の院長の娘と結婚して、病院ごと手に入れた。そして病院の規模は、日々どんどん大きくなっている。
院長の採用した人間は、医師・看護師から掃除のおばさんに至るまで、よく教育が行きわたっていて、患者には親切丁寧。そのなかにあって、自分は懐刀のようなものだと、園子は思っていた。
院長は、患者の来院日を告げると
「すまないね」
と園子の肩をぽんぽんと叩いて、立ち去って行った。
果たしてその当日、最後に診察室に入ってきたのは、長田琴子という貧相で自信なさげな女だった。そして園子の嫌いなボーダー柄の長袖シャツを着ていた。
「他の担当医に替えて、治療法も替えたいって言ってるみたいだけど」
長田琴子は黙って頷く。
「あり得ない!」
園子は言い放った。
「患者が医者を選べるとか、治療法を選べるとか、あり得ないから!」
園子の高くて固い声は、よく響く。隣の診察室では、院長が様子を窺っているはずだ。
「いまの抗がん剤は、昔に比べて副作用なんてほとんどないの! まずは手術して、それから抗がん剤で、身体のなかにあるすべてのがんを叩く!」
そう言っても、女は黙っている。園子は打てる手は全部打っていく。
「それに、院長先生は手術の腕も一流で、ゴッドハンドって言われているんですよ?!」
ボーダーシャツの女は、その声だけで、どんどんどんどん縮こまっていった。
なんだかしまうまに似ている、と園子は思った。図鑑でも博物館でも、いつもハイエナに食べられている、弱くてだめな生き物。
幼稚園の頃、園子はしまうまが好きだった。けれどしまうまが世間からそういう扱いを受けているのを知るうちに、しまうまの好きな自分が嫌いになっていったのだ。
しまうまなんて嫌い。しまうまなんて嫌い。
何度も自分にそう言い聞かせると、しまうまのことが憎くなってきた。私は強くなる。食べられて当たり前なんかじゃない。ハイエナにだってなってやる。
そうやって、園子は生きてきた。
獅子吼のごとき一撃で、園子はしまうまを撃退する。
「私はあなたの担当受けないから! やだったら、他院へ行って」
松田琴子は、わかりました、と小さく言って、診察室を出て行った。
松田琴子が出て行った診察室で、隣の部屋には聞こえないようにため息をついた。
「ゴッドハンド」だって、笑っちゃう。
院長の請け負う手術は、すべて園子が代わりに執刀しているというのに。その分高いお給料をもらっているけれど、園子の技術と名誉を売ったお金だ。なにかない限り、この病院から出ることはない。
園子だってほんとうは、怒ってばかりは嫌なのだ。きつい女だとばかり見られたくない。メイクも髪も、白衣の下の洋服も、女性らしく完璧になるように努めている。
なのに、男性スタッフはおろか、女性スタッフとうまく会話するのも難しい。
まえに院長の妻である医師とスタッフルームで二人きりになったときに相談したら、「さしすせそ」というのを勧められた。
「さすがですね」「知らなかった」「すごいですね」「センスがありますね」「そうだったんですね」。
そんな子供だましの手でなんとかなるのかしらと思ったけれど、園子はその作戦を完璧に実行していた。その「完璧さ」こそがだめなのだということに、園子は気づけずにいた。
(明日に続く)