【小説】園子シリーズ『中川園子の憂鬱』(4/5)
さて、当日の水曜日七時から、園子は入念にシャワーを浴びていた。今日のうちにベッドインすることは……
まさか! そんな破廉恥な男なら、こっちから振ってやる! ないないないない。アンダーヘアの処理はしないわ。これは保険よ。だってそんなことになったら一大事だもの。
園子は三十六回も着替えた挙句、疲れ果てて一着に決めた。ネイビーのふわっとした素材のブラウスにこっくりした赤のカーディガン、ベージュの膝丈のスカート。コートは紺のスタンド襟のものを。
服に合わせて靴も選ばなくてはならないが、きょうのデートは歩くのか歩かないのか。それすら覚えていないし、電話やラインで確認しようという頭もない。
ただ、歩かないと決めた。園子のほうからすれば、園田に問い質したいリストがずらっとあるし、歩いている暇などない。きっとどこかの喫茶店で、質問にひとつひとつ答えてもらうことになるだろう。
メイクをして、ウエーブのかかっているセミロングを完璧にドライヤーで巻き、いつものビジネスバッグに懸案事項に関する書類の束を入れて家を出た。
園田将一郎は、水色の車で来ていた。特に高級でもないけれど、なかが広くて使い勝手の良さそうな車。園子はそれに好感を持った。
この前はスーツだったけど、私服のセンスもよさそうだ。白いボタンダウンのシャツに、グレーのダッフルコートを着ていた。飾らない、緊張させない、そういう空気を読み取った。
服装が若いのは、あるいは大学で働いているからかもしれない。
「園子さん、こっちです」
将一郎が手を挙げる。園子は駆け寄り、助手席に乗り込んだ。
「さて。まずどこ行きましょう」
将一郎の質問に、園子は封筒に入れた例の書類を渡して応えた。将一郎はさっそくなかを開けてみて
「質問ですね。大事なことですね。さすが園子さんだ。じゃあ、次回までに回答書を書いておきますよ。で、どこか行きたいところはありますか?」
と答えた。園子の唯一の武器である「さしすせそ」の「さ」が早速先に使われたうえに、園子の目論見もあっという間に崩される。
「あの、きょう、カフェかなんかでも書いてもらえないかしら」
「いいですよ。帰りにカフェに寄る時間を作りましょう。園子さんに特にプランがないなら、動物園はどうですか。天気もいいし。ちょっと歩くことになっちゃいますけど」
将一郎は園子の足元をちらっと見た。歩くつもりじゃなかったから、寄りにもよってピンヒールだ。将一郎がなにか言う前に
「履き替えてきます!」
と園子はマンションのエントランスに駆けこんだ。
園子に靴を履き替えに行かせたことを、将一郎は何度も謝っていた。
「女性にはファッションの都合があるのに。前もって予定を立てておくべきでしたね。すみません、実は僕、女性とお付き合いしたことがあまりなくて。勉強します」
園子には意外だった。これだけ容姿に恵まれた将一郎が、女性とあまり付き合ったことがないということが。そしてそれを、自然体でさらっと言えてしまう性格を、こころから羨ましく、好ましく思った。
園田将一郎と行った動物園で、園子がはっきりと覚えていることがある。あれは園子が嫌いなしまうまの檻の前。二頭のしまうまがゆったりと歩いていた。
「僕、しまうま大好きなんですよね」
と、将一郎はさらりと言った。
「馬なのに、縞模様だなんて個性的じゃないですか。園子さんはどうですか?」
「私、私は……」
園子は困った挙句
「しまうまの縞は、虫を寄せ付けない効果があるそうです」
と言った。
「へえ、なぜですか?」
将一郎は尋ねる。
「しまうまの縞に光が当たると、その反射光は模様に従って交互に偏光と非偏光になるために、偏光を好む吸血アブの視界をかく乱させるというのです」
「へえ。そうなんだ、知らなかった。園子さん、学者みたいですね」
園子は将一郎に、「さしすせそ」の「そ」と「し」も使われ、ぐうの音も出ない。
「こ、このくらい、一般教養です」
と可愛くない言い方をしてしまった。
でもほんとうは、園子はものすごく嬉しかった。しまうまが好きというひとと出会えて。そのひととデートができて。
しかもふたりの道はただの道ではない。結婚に通じるかもしれない道なのだ。
でも私たちがこれからしようとしていることは恋愛じゃない。恋愛とはもっとも離れた、冷静さを欠くことのできない「結婚」という契約なのだ。
「さ、こんなことしている場合じゃありません。早く契約事項の内容を詰めなければ」
園子は将一郎のコートの袖を引っ張って、ずんずんと歩き出した。
「はは、園子さんってほんと面白いですよね」
将一郎の言葉に、立ち止まって振り返る。
「面白い?! 私はいつも、つまらないひとだと言われてきましたが」
「面白いですよ、園子さんは」
将一郎は園子の手を取った。それだけで園子は、めけめけになってしまう。
「手が……!」
「大丈夫です。そのくらい」
将一郎が園子の手を取って歩いて行く。耳まで真っ赤にした園子が、将一郎に連れられていく。園子は、こんな一瞬があるのなら、死んでもいいとすら思った。
遅い食事に、なにが食べたいですかと訊かれて、なんでもいいですと言ったら怒られた。
「もっと自分を主張しないと」
と将一郎は言うのだが、園子は普段、自分は主張しすぎているだろうと思っている。思っているが、黙っていた。
「ここから近いところで言うと、蕎麦、ハンバーグ、イタリアン、寿司、どれがいいですか?」
「ハンバーグ」
「お。わんぱくですね。それにしましょう」
将一郎の車で、ハンバーグ屋についた。ウッドハウスのようで、天井が高い。
「二階にもお席ございますよ」
店員が言うので上がってみると、天窓からの光に包まれた素敵な場所だった。
「素敵ですね」
将一郎が小声で言うので、園子も頷いた。将一郎はチーズハンバーグステーキのセットを、園子はおろしハンバーグのセットを頼む。
待っている間に、将一郎がさきほど園子が渡した書類を取り出した。帰る前に見てくれと言ったのは園子なのに、急に恥ずかしくなってくる。
「うーん。これは即答できる問題でもないなあ……」
将一郎は眉間にしわを寄せている。
「姓の問題だけでも決めましょう。僕はどっちでもいいんだけど、園子さんはやっぱり園田姓は嫌ですよね」
むしろ園田の姓に替わりたかった園子は
「いえ。園田園子、すぐに覚えてもらえますし、いまの日本では女性が男性の姓を継ぐことのほうが一般的です。園田の姓を継がないとなると、親類縁者にそれなりの説明をしなくてはなりません。園田の姓を継いだほうがいいと思います」
「ちょっと待って」
将一郎は頭に手をやって
「なんかおかしいと思ったんですよ。完全に話が結婚する方向にいっているけど、園子さんはそれでいいんですか? まだ二回しかお会いしてないんですよ? 性交渉どころか、キスだってしてないのに」
「キス?!」
園子は突拍子もない声を出してしまって、恥ずかしくなった。
「ま、まあ、それも、おいおい。必要不可欠なのであれば、致し方ありません」
将一郎は笑って
「園子さんってほんとうにおもしろいひとだなあ。必要不可欠ですよ」
と言うと、立ち上がって園子の唇に、ちゅっ、と自分の唇を合わせた。
あまりの不意打ちに、園子は両手を頬に当てながら、声にならない声を上げてしまった。ふわふわする、くらくらする。将一郎の唇は、甘くて温かくて、柔らかくて。園子の眼には涙が浮かんできてしまった。
「そんなに……嫌だったですか……。ごめんなさい」
将一郎が悲しそうに謝った。
「いえ……いえ……その、あまりにも素敵で……」
園子が口ごもると
「良かったですか? 帰りの車のなかでも、さよならのキスをしましょうね」
将一郎は微笑んだ。
(明日に続く)