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【長編小説】やがて動き出す、その前夜 第六話 旅立ちの前夜
百合子はひとりで銭湯に行った。帰ってみると、扶美子はすでに寝室で寝ている。眠っているとは思えなかったけど。
いつも隣合わせに布団を敷くのに、扶美子は部屋の片隅に布団を敷いて横たわっていた。扶美子の気持ちを尊重しないわけにはいかない。百合子はいつも通り、真ん中のほうに布団を延べた。
ずっとこのままなんやろか。もしかしたら、扶美子は外国に行ってしまうか知れんのに、何年も会えへんようになるかも知れんのに、寂しすぎる、と百合子は思った。
姉として声を掛ける、なんて、とてもできそうになかった。扶美子のほうがずっとおとなで、未熟な己が情けなかった。
百合子と扶美子の距離が縮まらぬまま、思った通り父からお許しが出て、扶美子はハワイの大学に行けることになった。
寂しかったけど、扶美子はなにやら忙しそうで。母も扶美子を手伝い、忙しそうで。
寂しさや焦りや悲しみは、人知れず噛みしめるものと決めていた。祝福してあげなければ、妹の門出を。
とはいえ、やっぱり姉らしい言葉もかけてやれず、出発の朝を迎えてしまった。
扶美子はとりあえずのホームステイ先を決めて、そこから住まいを探すつもりらしい、と母から聞いた。
出発の朝、玄関先に家族が揃う。父は車で京都駅まで送る、と言ったのだが
「おこころだけ、ありがたく頂戴いたします。」
と言って、扶美子は受けなかった。
トランクひとつに荷物をまとめ、靴を履いた扶美子は振り返って
「お父さん、お母さん、いままでお世話になりました。」
と頭を下げる。
まるで永遠の門出のような言葉。扶美子の顔には、余裕の笑みが浮かんでいた。
「気いつけてな。身体、大事にな。」
父は言葉少なに言い、母は
「つらくなったらいつでも帰ってきてええんよ。あんたの家は、ここやさかい。」
と言った。
扶美子は
「つらいことあらへん。自分で選んだみちやもの。うちはわくわくが止まらへん。」
と笑った。
なにか、扶美子のために言葉を。百合子は焦るものの、寂しさがどっと胸に溢れて、なにも言えないでいた。
扶美子はそんな百合子に近づき、片腕で百合子の首を抱き、耳元でささやいた。
「お姉ちゃん。大好きやったよ。いろいろ、堪忍な。」
我慢しようと思っていたのに、百合子の目からぶわっと涙が溢れてしまう。あんたには敵わへん。立派な子やわ、ほんま。
「がんばりや。あんたのこと、応援しとるよ。」
やっと言えたのはそれだけだった。
「それはこっちの台詞や。お姉ちゃん、しっかりしなさいよ? いつまでも泣きべそではあきませんよ。」
扶美子はそう言って笑った。
「ほな。行ってまいります。」
軽やかに手を挙げ、あっさりすぎるほどあっさりと、扶美子はトランクを手に出て行った。なんだか置いてきぼりの気持ち。百合子は甘えたの気持ちを、ぐっと飲み込んだ。頑張ろう。うちもそろそろ、頑張らなあかん。
もう七月。暑い季節がやってくる。判子屋の店先には、風鈴が吊るされ、軽やかな音色を立てていた。
(第七話……最終話につづく)
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