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【短編小説】微熱の冷めぬ、夏の夜(2/3)



 それから五日ほど経った深夜、マリは再び現れた。

「こんばんは。私がいなくて寂しかったでしょ」
 鏡のなかの女に一瞥をくれてから、パソコン画面に向き直る。

「別に。そうでもない」

「見て見て。ネイル、ピンクにしようか水色にしようか迷ってるんだけど」

 マリは私の愛想のない返事など、我関せずだ。ネイルカラーの入れ物を二つ、振って見せる。どちらもパステル系で、トーンが合っている。

「左手の薬指と右手の人差し指、小指は水色、あとはピンク」
 そっけなく答える。

「そっか。なるほど。さんきゅ」
 マリは向こうの世界のパソコンをのぞき込んだ。

「『―――これはあなたと私の、路の過程なのかもしれない―――
あのひとの、そんな言葉を思い出す。甘やかな、甘やかな、その甘さゆえに毒が一層強く廻った、罪深き台詞。
 もしも、あなたと俺との路の過程であるならば、一旦離れたあなたのこころも、いつか俺のもとに帰るのでしょう。苦難を乗り越えて結びつく、物語のなかのヒーローとヒロインみたいに、最後には交わり、永遠を誓うのでしょう。
 あのひとはそうやって、俺を過去に縛り付け、自分の帰る場所を用意しながら、冒険に旅立った。』」

「声に出して読まないでよ」
 私は苦情を言う。

「へええ。もう別れさせちゃったんだ。短編にするつもり?」
 マリは不思議そうだ。

「いや……。長編のつもりなんだけど。思ったんだけどさ。笑わないで聞いてよ?」

「はっはっはっはっは。うん、だいじょうぶ、先に笑っといた」
 マリの言動に話す気力も一気にそがれる。

「あんたさあ」
 呆れて続きが出てこない。

「なによ。話したいことあるんでしょ。言っちゃいなさいよ」

「あー。あんたと話してるといらいらするなあ」

「まあまあ。いらいらすると、美容によくないよ?」
 私は深くため息をついて、気を取り直して話し始めた。

「翔太と別れて以来ずっと、こころのなかに微熱が残っちゃってるような感じなの。忘れて新しい暮らしをしてるのに、いつかきっと会えるって、私の帰る場所はあのひとのところなんだって、どっかで信じちゃってる。そんなはずないのに。想いを断ち切ろうと、この小説を書いてるの」

 マリは一瞬黙ったが
「ふうん。いいんじゃない?」
 と言った。

「そういうことなら。じゃあさ、主人公電車乗ってるじゃん。高校のときの同級生とばったり出くわしてるじゃん」

「うん」
 それはそういう筋なのだ。

「もしかして真理は、この高校時代の同級生に、なんかいい感じのこと言ってもらって、主人公の熱を冷まそうとしてる?」

「それは……」
 図星であるとは答えにくい。

「だめだめ。ぜんぜんだめ」

「やっぱり陳腐だよね」
 マリはそれには答えず、人差し指を振ってみせた。

「この高校時代の同級生、実は猟奇的な殺人鬼で、翔太の―――ああ、綾子だっけ、こいつの背中をずさっと―――」

「だめだめだめ。殺しちゃだめ。殺して楽になるんなら、もうとっくに殺してるよ」

「殺しても楽になりませんか」
 マリが言う。

「殺しても楽になりませんねえ」
 私はため息をつく。

「じゃあ、物語のなかでくっつけるとか」

「現実、別れちゃってるもん。それは厳しいよ」
 ああ、暑くて頭も回らない。

「あんたさ。なんで現実に別れちゃったのか、ちゃんとわかってるの?」
 マリの言いぶりにイラっとした。

「わかってるよ。翔太にほかに好きな女ができたからでしょ!」

「あーあ」
 今度はマリがため息をついた。

「真理ちゃん、ぜんぜんわかってない。だめだこりゃ」
 そう言ってマリは消えた。

 なんとも言えない不愉快な感情だけが残された。

(続く)


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