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【短編小説】たづ姉さん(1/2)

 私が若かった頃のおはなしですから、もう随分前のことになります。

 年を取ると、若かった頃に目にしたすべてが輝いて、思い出すたび、切なくも甘い感情に包まれるものですね。ええきっと、誰だってそうなんじゃないかと思います。

 そうして、私ごと記憶が消えてしまう前に、誰かに伝えておきたいと思ってしまうのです。

 そう。私がおはなししたいのは、たづ姉さんのことなんです。

 いまでも思い出します。私が会社の寮の木製の階段を(階段はそれは急で狭いのですが)駆け上がっていきますと、たづ姉さんがギターを抱えて窓のヘリに座り、空を見上げながら、なにやら歌っているのです。

「雨よ、降れ。もっと降れ。愛しいあのひと、来るように。」

 確かそんな歌詞だったと思います。そうして階段に私の姿を認めると、それは柔らかにほほ笑むのです。

 たづ姉さんはいつもジプシーのようなロングのワンピースを着て、豊かな黒髪にパーマを当てていました。色白でまつ毛が長く、声はハスキーで、背が高くて。

 どこか殿方めいたところがあるのが魅力なのでしょう。女子寮でも、こころ密かにたづ姉さんを慕う者がたくさんおりました。

 もちろん私もそのひとりで。数ある同期生のなかでも、私だけがたづ姉さんと同室になれたことが嬉しくて。

 私たちの職場は繊維工場で、そこでは数多くの女性の職工さんたちが働いていました。それは大きな工場で、女子寮があるのが魅力でした。

 他県からもたくさんの若い女性たちが働きに来ていました。私もそのひとりでした。

 そして、これは時代なのでしょうが、みんな腰掛けのつもりで働いていました。

 いいひとを見つけるか、縁談するかして、年かさの者はどんどん辞めていきました。

 そこにいるのは、ほんの数年。その当時は思いませんでしたが、煌めくような青春の一ページでした。

 仕事はきついし、面白くないし、食事だってたいして美味しくありません。それでもみんな、未来を夢みていた。楽しかったと、いまならば言えます。

 たづ姉さんのおはなしに戻りましょう。

 寮のせんべい布団に、たづ姉さんと並んで寝ているとき、彼女が楽しそうに鼻歌を歌っているときがありました。ミステリアスなたづ姉さんですから、こちらは、いいことあったのかな、ぐらいにしかわかりません。

 それだけならきっと、忘れてしまったはずですが、その夜のことははっきり覚えています。

「お菊。」
 たづ姉さんは私のことをこう呼ぶのです。

「なんですか?」
 私は頭をそちらに向けました。豆球の灯りに、たづ姉さんの真っ黒い瞳が光っていました。

「お菊は男のひとに抱かれたことある?」
 艶っぽい声で、たづ姉さんが訊きました。私はびっくりしてしまいました。そういうことは、結婚してからするものだと思っていたからです。大きくかぶりを振りました。

「たづ姉さんは、あるんですか? その、そういうことが。」

 たづ姉さんの恋愛事情について、私はなにも知りませんでした。ただ、たづ姉さんがひとと違って見えるのは、もしかしたら殿方のせいかもしれないと思いました。

 私の問いには答えずに、
「じゃあ、女に抱かれたことは?」
 と声を潜めて言い、楽しそうに笑いました。真っ黒な瞳に見つめられて、私の心臓はばくばくと音を立てて打ち始めます。

「な、ないです、そんな。」
「では抱いてやろう。お菊を私が抱いてやろう。」
 たづ姉さんがにじり寄ってきました。

「堪忍してください!」
 私は頭まで布団を被ります。身体の芯がじんと熱くなりました。

「冗談。」
 たづ姉さんはそう言うと、私の布団をぽんぽんと叩いて、自分の布団に戻ったようでした。

 その一件があってから、私のたづ姉さんを見る目は少し変わりました。

 たづ姉さんは、きっと恋をしているに違いない。「愛しいあのひと」は、きっと「雨が降る」と訪れるのだろう。

 そうしてみてみますと、たづ姉さんがお腹が痛いと言って仕事を休む日は、決まって雨の日なのです。

 そのくせ、雨の夜に私が帰りますと、例によってギターを持って、窓辺で楽しそうに歌っているのです。

「雨よ、降れ。もっと降れ。愛しいあのひと、来るように。」

 たづ姉さんは、私に比べてだいぶおとなでした。敵わないほど、おとなでした。

 でもどこか、危なっかしい気がしたのです。私は胸騒ぎが止まりませんでした。

 けれど、たづ姉さんの恋について、なにも知らない以上、なにも言いようがありませんでした。

 そのうちに、そんなことなどどうでも良くなってしまうような出来事が起こりました。私は、恋に落ちたのです。

 相手は、工場から三軒隣に位置する、建設会社の社員でした。

 仕事帰りに、工場から女子寮のほうに向かおうとしたところで、声を掛けられました。向こうはふたりで、こちらも喜代ちゃんという女の子とふたりで歩いていました。

「工場の子でしょ? これから一緒に映画に行かない?」
 背が高くて、すらっと細い男性が言いました。

 隣にいるのは、ちょっとあどけなさの残る顔立ちの男性でしたが、背の高いほうは、もう完全におとなでした。

 その声の低さに、ちょっと怖くなり、反面すごく惹かれました。

「俺はかず。こいつは伸也。君たちとても可愛いから、声を掛けるタイミングを待ってたんだ。」
 背の高いかずが言いました。

 そのときふっと感じました。伸也というあどけない青年は、喜代のことを狙っていたんだって。彼はまだ一言もしゃべっていませんでした。

「今夜は無理。」
 喜代は伸也の気持ちを知ってか知らずか、突っぱねます。

「じゃあ、今度の日曜日とかどうですか?」
 伸也が初めて口を開いて、食い下がります。

「日曜日だったら……。ねえ。」
 喜代は私の顔色を見ました。

「日曜日だったら、大丈夫。」
 私は請け合いました。

 まさかこんな出会いが自分にあると思っていなかったので、私は浮足立ちました。

 そりゃあ、世間一般からすれば、平凡すぎる出会いかもしれません。けれど私はときめきました。

 女学校を出て、そのまま工場に勤務した私にとっては、若い男性からおとなの女性に見てもらえるのは、生まれて初めての体験でした。

 私たち四人は、二回一緒に映画を観に行きました。

 でもそのあとは、ばらばらでした。喜代は伸也くんと逢っているようでしたし、私もかずさんと逢っていました。

 携帯電話などない時代ですから、工場からの帰り道、電信柱の影にかずさんが立っていると、胸が温かく高鳴るのです。

 そうして、駆け引きなんてできない私は、満面の笑顔で駆け寄ってしまうのでした。

 かずさんは、柔らかい唇で優しくキスしてくれました。でも私は、それ以上の関係を許しませんでした。

「これ以上はだめ。結婚してから。」
 かずさんが胸をまさぐってくると、私はその手を止めました。

「そういうとこ、すごく好き。」
 かずさんは私の耳元で囁きました。

 かずさんにはおとなの余裕がありました。それでいて、私の意思を尊重してくれました。

 どんどん好きになってゆく自分を、私は止められませんでした。

 浮かれているのは罪でしょうか。そんな折に、たづ姉さんの一件があったのです。

 ある雨の夜、女子寮に帰るとたづ姉さんはいませんでした。その日は工場を休んでいましたから、どこか外にいるはずです。

 台風が来ていて、真っ暗な窓の外に、木々が風雨でしなっていました。

 風が窓ガラスを打ち鳴らします。木製の窓枠は、いまにも飛んでしまいそうなくらい、がたがたと音を立てていました。

 私はたづ姉さんが心配でたまりませんでした。食事の場にも、彼女は現れませんでした。どこかで雨をしのいでいるといいのだけれど。そんなことを考えていました。

 門限までに帰れなかったら、大目玉です。ましてやたづ姉さんは、仕事をずる休みしているのですから、なおさらでした。

 夜十時の門限近く、私が自室で所在なくしていますと、階下から、たづ姉さん! たづ姉さん! と呼ぶ声が聞こえました。

 急いで階段を下りてみると、玄関先にびしょ濡れになったたづ姉さんが立っていました。

 女の子たちがしきりとたづ姉さんの身体をタオルで拭いていましたが、そんなものでは到底足りないくらい、たづ姉さんはびしょ濡れでした。

「お菊……」
 私の姿を認めると、たづ姉さんは弱弱しく笑いました。黒い瞳が、濡れているかのように艶めいていました。

「たづ姉さん!」
 泣き叫ぶように言って、抱き着きました。たづ姉さんは、安心したように身体を預けてきたのでした。


(つづく)

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