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【長編小説】やがて動き出す、その前夜 第四話 前触れ
ある日、お琴のお稽古に行こうとして、着物に着替え、風呂敷包みを持った百合子は、扶美子が書斎にいることに気づいた。
百合子は書斎のガラス戸を開け、
「あんた、なんで居るん?」
と問うた。
「四月やねん。」
扶美子は手にした万年筆の先を眺めながら答える。
なんという、圧倒的な説明不足。確かに、三日前から四月になったのだが、それがどうしたというのだろう。
「銀行のお仕事は?」
「辞めた。」
「なんで?!」
百合子は仰天してしまったのだが、扶美子はにやにや笑っている。
「お姉ちゃん、知らんの? 年度末に辞めるのが、キリがええねん。」
そういうことを訊いているのではないのだ。もしかして扶美子は結婚するのでは。嫌な妄想が頭を駆け巡る。妹に先を越されるなんて、いよいよ行き遅れ決定だ。
冷静さを装って、
「なんで辞めたか、訊いてんねん。」
と言った。
「お姉ちゃん、今日は四月の三日ですよ?」
「せや。それがなんなん?」
「うち、ずっとおったで。随分、いまさらですやん。」
そうや。三日も扶美子がおったのに、気が付かんかった。百合子は、なんだかわけのわからない反省をした。でも、肝心の辞めた理由について、なにも聴けていない。
「ほら、お琴のお稽古に遅刻しますよ。はよ、行きなさいよ。」
そうだった。お琴の先生は厳しいのだ。もやもやしたまま、百合子は書斎のガラス戸を閉めた。その際に、扶美子が机の上に広げているものが目に入る。
和英辞典や参考書を脇に、扶美子は英語でレポート用紙になにか書いているらしい。流麗な筆記体では、百合子は到底読むこともできない。
扶美子は昔から、英語の好きな子供だった。中学時代、高校時代は、いずれも英語部に入っていた。
高校から、外国人観光客を相手にするボランティア活動にも参加し、銀行に勤めたあとも、ボランティアは続けていた。
週に一日しかない休みの日の日曜に、ボランティアをやっているのだから、扶美子はとても忙しかった。ようやるわ、と思っていたものだ。
百合子が息をするように絵を描くように、扶美子には英語で喋ることが必要なのだろう。
だけどここは日本なのだ。扶美子は英語教師の資格でも取るつもりなのかもしれない、と思いながら、百合子はお琴の教室に急いだ。
それきりしばらくは、なにも起こらなかった。ただ扶美子が毎日熱心に英語を綴っているだけで、母はなにも言わないし、話題にのぼることもなかった。
父はそもそも知らないようでもあった。もともと扶美子の好きで始めた仕事だから、知ったところでどうでもいいのかもしれない。
相変わらず夢のお風呂は実現せず、銭湯通いの日々が続いていた。
扶美子を問い詰めることもできなくはないが、またはぐらかされるに決まっていた。それが癪なので、黙っていることにした。
百合子はめんどうなので、扶美子が英語教師を目指している説を勝手に信じることにした。扶美子の頭のなかに「結婚」の二文字はあまりないのだな。そう思うと、なんだか不思議だった。
なんでうちはこんなに焦ってんのやろ。百合子は気持ちが急くばかりで、現実はなにも変わっていなかった。
事件は六月になったある夜に起こった。
(第五話につづく)
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