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【マキアヴェッリ語録】 第9回

マキアヴェッリ語録


🔷 塩野七生しおのななみさんの『マキアヴェッリ語録』からマキアヴェッリの言葉をご紹介します。マキアヴェッリに対する先入観が覆されることでしょう 🔷

7年前にブログで投稿した記事を再構成し、時には加筆修正して、お届けします。(2015-05-31 20:19:28 初出)


目的は手段を正当化する

 マキアヴェッリ(日本ではマキャベリと表現されることが多い)は『君主論』の著者として知られ、「マキャベリズム」が人口に膾炙しています。


 その思想を端的に表現する言葉は、「目的は手段を正当化する」です。


 目的のためならどんな手段を講じてもかまわない、と解することが多いですね。


 実は、私もこの書を読むまではそのように解釈していました。
 言葉を文脈の中で解釈せず、言葉が独り歩きすることの怖さは、風説の流布でも経験することです。


 福島第一原発事故以後、周辺にお住まいの方々は風説の流布に悩まされ続けています。拡散した誤情報はさらに誤情報を加え、拡大していきます。
 容易に訂正されることはありません。


 話しを戻しますと、マキアヴェッリの実像はどのようなものであったのか、そして「目的は手段を正当化する」と言っていることの真意は何だったのか、を知りたいと思いました。


 先入観を取り払い、大前研一さんが言う、「オールクリア(電卓のAC)」にしてマキアヴェッリの説くことに耳を傾けることにしました。


 マキアヴェッリは、1469年5月3日にイタリアのフィレンツェで生まれ、1527年6月21日に没しています。15世紀から16世紀にかけて活躍した思想家です。500年位前の人です。

 


 塩野七生しおのななみさんは、「まえがき」に代えて「読者に」で次のように記しています。塩野さんが解説ではなく、また要約でもなく、「抜粋」にした理由を説明しています。


 尚、10ページ以上にわたる説明からポイントとなる言葉を「抜粋」しました。

塩野さんが解説ではなく、また要約でもなく、「抜粋」にした理由


この『マキアヴェッリ語録』は、マキアヴェッリの思想の要約ではありません。抜粋です。
なぜ、私が、完訳ではなく、かといって要約でもなく、ましてや解説でもない、抜粋という手段を選んだのかを御説明したいと思います。

第一の理由は、次のことです。
彼が、作品を遺したということです。
マキアヴェッリにとって、書くということは、生の証あかし、であったのです。

マキアヴェッリは、単なる素材ではない。作品を遺した思想家です。つまり、彼にとっての「生の証し」は、今日まで残り、しかもただ残っただけではなく、古典という、現代でも価値をもちつづけているとされる作品の作者でもあるのです。生涯を追うだけで済まされては、当の彼自身からして、釈然としないにちがいありません。

抜粋という方法を選んだのには、「紆曲」どころではないマキアヴェッリの文体が与えてくれる快感も、味わってほしいという私の願いもあるのです。そして、エッセンスの抜粋ならば、「証例冗漫」とだけは、絶対に言われないでしょう。

しかし、彼の「生の声」をお聴かせすることに成功したとしても、それだけでは、私の目的は完全に達成されたとはいえないのです。マキアヴェッリ自身、実際に役に立つものを書くのが自分の目的だ、と言っています。
 

『マキアヴェッリ語録』 「読者に」から PP.3-6、15        

  


 お待たせしました。マキアヴェッリの名言を紹介していきます。


マキアヴェッリの名言


第1部 君主篇



君主たる者は、才能ある人材を登用し、その功績に対しては、充分に報いることも知らねばならない。

そして、国民に対しては、それぞれの分野で安心して働けるようはからい、彼らが、取得したものを取りあげられるのがいやさに財産を増やすのを怖れたり、重税嫌さに取引を鎮静させることのないよう、注意を怠ってはならない。
                       
   

『マキアヴェッリ語録』 「君主論」から P.99            



人は、心中に巣食う嫉妬心しっとしんによって、めるよりもけなすほうを好むものである。


それゆえに、新しいやり方や秩序を主張したり導入したりするのは、それをしようとする者にとって、未知の海や陸の探検と同じくらいに危険をともなう「事業」となる。

『マキアヴェッリ語録』 「政略論」から P.100           
                    
                    
 


               
   


嫉妬心をおさえこむには、方策は2つある。

第1は、それを行わなければ直面せざるをえない困難な事態を、人々に納得させることだ。誰しも難局を自覚すると、そこから脱出しようとして、自分一人の想いなど忘れ、脱出させてくれそうな人に進んで従うようになる。

第2の方策は、強圧的にしろ他のいかなる方法にしろ、嫉妬心をもつ人々が擁立しそうな人物を、滅ぼしてしまうことである。

モーゼもまた、彼の考えに反対した多くの人を、殺さざるをえなかったのだ。
 
人々の嫉妬心が、善きことをしていれば自然に消えていくなどとは、願ってはならない。邪悪な心は、どれほど贈物をしようとも、変心してくれるものではないからだ。

人々の心に芽生えがちな嫉妬心を克服できるかどうかは、大事業が成功するか失敗するかの、分かれ道でもある。
        

『マキアヴェッリ語録』 「政略論」から P.101           


マキアヴェッリの語る言葉は深い

                            
🔶 マキアヴェッリの語る言葉は深い、と思います。

マキアヴェッリは人間観察に優れた人だった、
と想像します。心理学にも長けていたのでしょう。

「君主」を「リーダー」に置き換えて考えてみるとより身近に感じられるでしょう。

嫉妬心は、人間であれば誰でも一度はもつものです。
そして、この嫉妬心を克服するのは容易なことではありません。


あなたも、他の人に嫉妬心を抱いた経験はお持ち
でしょう。もちろん、私も経験があります。


「あの人がいなければ、自分は浮かばれるのに・・・」

「なんで、いつもあの人ばかり高評価されるのか・・・」

「あいばかり、いつもモテるな! それに比べ、オレは
どうしてこうもモテないのか・・・」


笑い話のようですが、大なり小なりこのような経験はあると思います。


マキアヴェッリは次のように述べています。

「君主たる者は、才能ある人材を登用し、その功績に対しては、充分に報いることも知らねばならない」


これはとても難しいことです。
自分より才能のある人材を登用したら、自分の立場が危うくなると考える君主(リーダー)が多いからです。


マキアヴェッリはかなり過激な表現を使っていますが、君主たる者(リーダー)は時には非情とも思われることもしなくては、一国(部署)を治めることはできない、と言っているのです。


平時の君主(リーダー)と非常時の君主は、自ずから異なることが分かります。


平時であれば、無茶な方策を行なう必要はありません。
ところが、非常時であれば、方策を躊躇している余裕はありません。


強引でも、実行していかなければならないのです。
独裁者にもならなければいけない局面が、必ずあると思います。


その方針に従えない人は馘首することも辞さいない、
強い気持ちを継続できるかが問われます。


『リーダーシップの本質』

堀紘一氏の『リーダーシップの本質』と対比していただくと、興味深い事実を発見できると思います。



🔷 著者紹介

塩野七生しおのななみ<著者紹介から Wikipediaで追加>

日本の歴史作家、小説家である。名前の「七生」は、ペンネームではなく本名。
東京都立日比谷高等学校、学習院大学文学部哲学科卒業。

日比谷高時代は庄司薫、古井由吉らが同級生で、後輩に利根川進がいて親しかった。

1970年には『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』で毎日出版文化賞を受賞。

同年から再びイタリアへ移り住む。『ローマ人の物語』にとりくむ。

2006年に『第15巻 ローマ世界の終焉』にて完結した(文庫版も2011年9月に刊行完結)。『ローマ人の物語Ⅰ』により新潮学芸賞受賞。

99年、司馬遼太郎賞。

2002年、イタリア政府より国家功労勲章を授与される。

2007年、文化功労者に選ばれる。

高校の大先輩でした。




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