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【五木寛之 心に沁み入る不滅の言葉】 第17回

『生かされる命をみつめて 自分を愛する 編』 五木寛之講演集


 五木寛之さんの『生かされる命をみつめて 自分を愛する 編』から心に沁み入る不滅の言葉をご紹介します。

 五木さんは戦時中から特異な体験をしています。
 「五木さんは生まれて間もなく家族と共に朝鮮半島に渡り、幼少時代を過ごしました。そこで迎えた終戦。五木さんたちは必死の思いで日本に引き揚げたそうです」(「捨てない生活も悪くない」 五木寛之さんインタビューから)


 今年9月に90歳になるそうです。今日に至るまで数多の体験と多くの人々との関わりを掛け替えのない宝物のように感じている、と思っています。

 五木さんは広く知られた超一流の作家ですが、随筆家としても、講演者としても超一流だと、私は思っています。

 一般論ですが、もの書きは話すのがあまり得意ではないという傾向があります。しかし、五木さんは当てはまらないと思います。 



「憂いなきに似たり」から

五木寛之の心に沁み入る不滅の言葉 1 (49)

 つくづく感じたのは、「語らざれば憂いなきに似たり」という、良寛さんの書にある言葉だったのです。
 いま、この平成の豊かな社会のなかで、たくさんの人たちが語らずに生きている。
 その生きている人たちの痛み、悲しみ、そういうものを私たちはほとんど気づかないままに時代が流れ去っていこうとしている。
 そのことをつくづく感じると同時に、人間が生きているということは、黙って生きていたとしても、それだけで重い荷物を背負って、そして難しい、困難な、暗い道のりを歩いていくことなんだな、と思わざるをえません。

『生かされる命をみつめて 自分を愛する 編』 五木寛之                  




「憂いなきに似たり」から

五木寛之の心に沁み入る不滅の言葉 2 (50)

 人生というものを、無限の可能性があり、そして明るい未来があると、そういうふうにだけ考えるのは、やはりルネッサンス以降の人間ではないかと思います。
 むしろいま、生きていることは大変なことだ、と覚悟したほうがいいのではなかろうか。
 生きていくということは辛い。生きていくということは矛盾に満ちている。人間が生まれてきたということは悲しい。そして、人は泣きながら生まれてくるのだ。泣きながら生まれてきて、泣きながら生きるのだ。そして泣きながら死んでいくのだ。

『生かされる命をみつめて 自分を愛する 編』 五木寛之                  



「生きているだけで」から

五木寛之の心に沁み入る不滅の言葉 3 (51)

 人間は何のために生きているのか。
 そんなことを、若い頃はしばしば考えたものでした。
 人間が生きていることに、なにか意味があるのか、ないのか。意味がないとしたら、なぜ自分は生きているのか。
 そうしたことを考える、そういう年頃というのがあるような気がするのです。
 その時、ひとつのことばが私の頭のなかにずっと鳴り響いていました。
 それはフランスの思想家デカルトの、「我思う、ゆえに我あり」ということばです。
 ”cogito, ergo sumコギト エルゴ スム”と学校で習いましたが、つまり人間は思惟しいするということ、ものを考えたり、いろいろなことを頭のなかで組み立てる、分析する、それこそが生きていることなのだ、ということばです。
 なにも考えずにただ呆然ぼうぜんと生きていることは、まったく生きるにあたいしないのか。強迫観念きょうはくかんねんのように、デカルトのことばが、頭のなかにずっと尾を引いて響いていました。

『生かされる命をみつめて 自分を愛する 編』 五木寛之                  


出典元

『生かされる命をみつめて 自分を愛する 編 五木寛之講演集』から
2015年10月15日 初版第1刷発行
実業之日本社




✒ 編集後記

『生かされる命をみつめて 自分を愛する 編 五木寛之講演集』は、講演集ということになっていますが、巻末を読むと、「2011年8月東京書籍刊『生かされる命をみつめて』『朝顔は闇の底に咲く』『歓ぶこと悲しむこと』に加筆の上、再構成、再編集したものです」と記載されています。

裏表紙を見ると、「50年近くかけて語った講演」と記されています。それだけの実績があります。

🔷 「フランスの思想家デカルトの、『我思う、ゆえに我あり』ということばです」

我思う、ゆえに我あり」は、大学で第二外国語をフランス語を選んだ後にフランス語で知りました。

Je pense, donc je suis.

我思う、ゆえに我あり

これはどういう意味なのか?
学生の頃に考えたことがありましたが、結論が出ませんでした。

「“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である」

「デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していった、とされる」


トマス・アクィナスは、「我あり、ゆえに我思う」という、存在を優先させる考えだったそうです。

五木寛之さんはp.117でそのように書いています。




🔶 五木寛之さんの言葉は、軽妙洒脱という言葉が相応しいかもしれません。軽々に断定することはできませんが。

五木さんの言葉を読むと、心に響くという言うよりも、心に沁み入る言葉の方が適切だと思いました。

しかも、不滅の言葉と言ってもよいでしょう。




著者略歴

五木寛之ひつき・ひろゆき

1932年福岡県出身。早稲田大学露文科中退。67年、直木賞受賞。

76年、吉川英治文学賞受賞。

主な小説作品に『戒厳令の夜』『風の王国』『晴れた日には鏡をわすれて』ほか。

エッセイ、批評書に『大河の一滴』『ゆるやかな生き方』『余命』など。

02年、菊池寛賞を受賞。

10年、『親鸞』で毎日出版文化賞特別賞受賞。

各文学賞選考委員も務める。







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